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横岳、縞枯山
燕岳、大天井岳
焼岳


【日時】 2002年8月28日(水) 日帰り
 8月29日〜30日 1泊2日 テント泊
 9月1日 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 28日:晴 29日:晴 30日:晴 1日:晴

【山域】 北八ヶ岳
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
横岳・よこだけ・2472.5m・三等三角点(2480m・なし)・長野県
縞枯山・しまがれやま・2403m・なし・長野県
【コース】 横岳ロープウェイより
【地形図 20万/5万/2.5万】 長野/蓼科山/蓼科、蓼科山
【ガイド】 アルペンガイド「八ヶ岳・北八ヶ岳」、山と高原地図「八ヶ岳、蓼科」(昭文社)
【温泉】 たてしなの湯 400円(ボディーシャンプーのみ)

【山域】 常念山脈
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
燕岳・つばくろだけ・2762.9m・二等三角点・長野県
大天井岳・おてんしょうだけ・2922.1m・三等三角点・なし・長野県
【コース】 中房温泉より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高山/信濃池田、槍ヶ岳/有明、槍ヶ岳
【ガイド】 アルペンガイド「上高地・槍・穂高」、山と高原地図「上高地・槍・穂高」(昭文社)
【温泉】 有明荘 600円

【山域】 上高地周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
焼岳・やけだけ・2393m・なし(2455.4m・二等三角点)・長野県
【コース】 新中ノ湯コースより
【地形図 20万/5万/2.5万】 高山/上高地/焼岳
【ガイド】 アルペンガイド「上高地・槍・穂高」、山と高原地図「上高地・槍・穂高」(昭文社)
【温泉】 さわんど温泉木漏れ日の湯 500円

【時間記録】
8月27日(火) 20:20 新潟発=(北陸道、上越JCT、上信越自動車道、更科JCT、上田菅平IC、R.18、大屋、R.152 経由)
8月28日(水) =0:20 マルメロの駅ながと  (車中泊)
5:00 マルメロの駅ながと=(R.152、大門峠、スズラン峠 経由)=5:40 横岳ロープウェイ山麓駅〜8:00 発=8:07 山頂駅―8:22 坪庭分岐―8:43 三ッ岳分岐―8:49 北横岳ヒュッテ〜8:59 発―9:10 横岳〜9:21 発―9:25 横岳北峰―10:14 亀甲池―10:43 双子池―11:06 林道分岐―11:44 雨池峠分岐―11:54 雨池入口―11:57 雨池〜12:31 発―12:36 雨池入口―12:46 雨池峠分岐―13:08 雨池峠―13:30 縞枯山〜13:40 発―13:57 雨池峠―14:10 坪庭分岐―14:14 山頂駅〜14:20 発=14:27 山麓駅=(R.299、諏訪IC、中央自動車道、岡谷JCT、長野自動車道、豊科IC、R.147、北穂高 経由)=19:00 中房温泉郷駐車場  (テント泊)
8月29日(木) 5:35 中房温泉郷駐車場発―5:56 中房温泉―6:32 第一ベンチ〜6:35 発―7:01 第二ベント〜7:05 発―7:33 第三ベンチ―8:04 富士見ベンチ〜8:10 発―8:35 合戦小屋〜8:53 発―9:10 合戦ノ頭―9:47 燕山荘〜9:55 発―10:20 燕岳〜10:35 発―10:51 燕山荘〜10:56 発―11:40 大下りの頭〜11:46 発―11:55 鞍部―(12:38〜12:55 昼食)―13:10 切通岩―13:18 分岐〜13:23 発―13:51 大天荘〜14:37 発―14:46 大天井岳〜15:37 発―15:43 大天荘  (テント泊)
8月30日(金) 6:20 大天荘発―6:35 分岐―6:42 横通岩―7:25 鞍部―7:42 大下りの頭〜7:52 発―8:30 燕山荘〜8:58 発―9:17 合戦ノ頭―9:25 合戦小屋〜9:32 発―9:46 富士見ベンチ―10:03 第三ベンチ〜10:08 発―10:24 第二ベンチ―10:36 第一ベンチ―10:55 中房温泉―11:02 中房温泉郷駐車場=(有明、新村、R.158 経由)=14:50 松本
8月31日(土) 15:30 塩尻発=(R.19、野村、鍋割、R.158 経由)=19:00 新中ノ湯コース登山口  (テント泊)
9月1日(日) 5:10 新中ノ湯コース登山口発―6:20 分岐―7:01 南峰下―7:08 焼岳〜8:10 発―8:16 南峰下―8:44 分岐―9:32 新中ノ湯コース登山口=(R.158、松本IC、長野自動車道、更科JCT、上信越自動車道、上越JCT、北陸自動車道 経由)=14:50 新潟着
 八ヶ岳は、首都圏に近いこともあり、前夜発日帰りあるいは1泊2日の週末登山の山として親しまれている。八ヶ岳は、最近では北八ヶ岳と南八ヶ岳に分けて扱われることが多い。南八ヶ岳が険しい岩峰を連ねた登攀的な山なのに対し、北八ヶ岳は針葉樹の原生林に池塘や草原、岩峰を点在させた逍遙的な山である。横岳は、北八ヶ岳の中心とも言える山で、山頂近くの坪庭までロープウェイが通じていることから、登山者に親しまれている。
 大天井山は、常念山脈の最高峰で、燕岳から大天井岳を経て槍ヶ岳に至る表銀座、あるいは常念岳へ至る縦走路の分岐にある山である。縦走路上の要所にある山のためか、いずれかの縦走路の途中に登る山として考えられ、この山だけを目指すものは少ない。
 焼岳は、上高地の入口に聳える山で、現在でも火山活動が活発な山である。上高地の大正池は、この山の噴火によって梓川がせき止められてできたものであり、上高地の景観に焼岳は無くてはならないものになっている。

 夏山最後の山行に、大天井岳を予定したいたのだが、台風が日本の南岸を通過し、雨の予報が出てしまった。雨の中のテント泊は、先日の雲ノ平山行で懲りたので、日を遅らせることにした。信州の日帰りの山ということで、ロープウェイを使って簡単に登ることのできる北八ヶ岳の横岳を考えた。雨が激しかった場合は、霧ヶ峰あたりの散策に変更すれば良いと思った。
 急遽、帰宅の途中、新しいアルペンガイドを買ってきて、現地に着いてから良く読むことにした。北八ヶ岳への行き方についても、出発直前に道路地図でコースを考えることになった。以前、独鈷山に登った時のコースを逆に辿って、大門街道を行けば、北八ヶ岳に出ることができることが判った。上信越自動車道が開通したおかげで、このあたりにも行きやすくなった。
 高速が通じているといっても、上田菅平ICから下りて大門街道に入ったところで深夜になり、道の駅「マルメロの駅ながと」で寝ることになった。駐車場にはトラックが並んでいたが、奧の温泉施設の駐車場は自家用車だけで、静かであった。寝酒のビールを飲みながらガイドブックを読んで、歩くコースを決めた。
 夜中に星空が広がっていたが、翌日は晴れた朝になった。雨の天気予報は完全に外れた。観光施設に取り囲まれた白樺湖を通り、横岳のピラタスロープウェイを目指した。事前の調査不足で、ロープウェイの始発が何時であるかは知らなかった。夏山シーズンで、早くから動いているかと期待していたのだが、ロープウェイの運行は、8時から5時までの間で、毎時0、20、40分発であった。乗車時間は、7分。山頂駅まで歩くと、1時間20分。すぐに歩き出せば、ロープウェイを使うよりも早いことにはなるが、横着を決め込んで、もうひと眠りして待つことにした。快晴の朝で、広い駐車場の向こうには、甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳がひときわ目立つ南アルプスと、中央アルプスの眺めが広がっていた。横岳の山頂も頭上に聳えていたが、逆光の中であった。
 始発に乗り込んだハイカーは3組で、夏山の賑わいはひと段落したようであった。片道900円で、往復券の割引は無かったので、片道切符を買った。場合によっては歩いて下山と思ったのだが、ロープウェイの下に長く続く道を見ていると、歩く気持ちは失せてしまった。
 山頂駅を出ると、溶岩と思われる岩が積み重なった坪庭が広がっていた。あたりの風景を楽しみながら、遊歩道に進んだ。坪庭の遊歩道から分かれると、横岳への登りが始まった。つづら折りの登りを続けていくと、三ッ岳への分岐に出て、その先で北横岳ヒュッテに到着した。登山標識もそうであるが、南八ヶ岳の赤岳隣の横岳と区別するためか、北八ヶ岳の横岳は、北横岳と表示されていた。
 小屋の前が七ツ沼の入口になっていた。僅かに下ると池の畔に出た。針葉樹の森に囲まれた小さな池であった。その先の池の方が少し大きかった。七ツ沼という名前に反し、見物できるのは、二つの池のみであった。
 小屋からは、横岳に向かっての急な登りになった。幸い、すぐに横岳の山頂に到着した。周囲の展望が開けていたが、南八ヶ岳の山頂が雲で覆われているのが残念であった。南アルプスには雲がかあkり始めていたが、北アルプスの槍・穂高連峰は、しっかりと見てとることができた。蓼科山は目の前に大きくそびえ、台地状の山頂が見え隠れしていた。雲が出てきたのは残念であったが、雨を覚悟していたことを思えば、文句を言えはしない。
 ひと休みの後、北峰に進んだ。こちらも同様に周囲の展望が開けていた。横岳には簡単に登ることができたので、池巡りのコースを歩くことにした。横岳からの下りは急で、岩を伝い歩くような所もあり、足元に注意が必要であった。登山道の周囲には、シラビソやコメツガといった針葉樹の原生林が広がり、林床には苔の絨毯が広がっていた。少し陰気ではあるが、新潟周辺で慣れ親しんでいるブナ林とは違った森であった。
 亀甲池は、針葉樹の森に囲まれた静かな池であった。夏枯れのためか、水面は狭くなっていた。針葉樹の森を緩やかに登っていくと、双子池の雌池の西岸に出た。この池は満々と水をたたえていた。暗い森を抜けてきただけに、太陽に輝く湖面が明るく見えた。池の縁を回り込んでいくと、双子池ヒュッテに到着した。その先に、双子池の雄池が広がっていた。雄池は、ヒュッテの飲み水として使っているようで、湖畔に荷物を持ち込まないようにという注意書きが掲げられていた。
 ヒュッテの裏手の林道を進むと、大石川林道とぶつかるT字路に出た。雨池へは、右折して林道を進んだ。すぐ先で林道には鎖が掛けられ、歩き専用の道になった。大岳や三ツ岳の山麓を巻いていく林道であるが、途中の崩壊地では道幅が狭くなっており、車の通行は不可能になっていた。太陽の日差しが厳しく、汗を流しながらの歩きになった。
 ロープウェイへの帰り道になる雨池峠入口を見送り、さらに林道を進むと、雨池への入口に出た。登山道は笹が被り気味であったが、少し下ると、雨池の畔に出た。大きな池のようであったが、水面は小さくなっており、広大な泥地が広がっていた。ガイドブックにあるように、池の東面まで進んでみようと思ったが、登山道は笹で覆われて足元が見えない状態であった。池の縁を歩くことができるため、登山道を歩く者は少ないのかもしれない。適当な所で引き返し、池の縁に腰を下ろして昼食とした。初老の単独行が到着して、日陰に腰を下ろした。今日の訪問者は二人のようであった。
 雨池峠入口からは、峠に向かっての急な登りになった。道の状態も、ロープウェイの遊歩道の延長線としては、意外に悪かった。幸い登りも僅かで、雨池山と縞枯山との鞍部の雨池峠に到着した。縞枯山は、針葉樹の林が帯状に枯れる縞枯れ現象で有名でもあり、登っていくことにした。針葉樹林帯の中の急な登りが続いた。縞枯山の山頂は、山頂標識があるだけで、林に囲まれて展望も開けていなかった。この標識が無ければ、茶臼山への縦走路の途中、稜線の上に出たということで、そのまま先に進んでいってしまうような山頂であった。枯れ木は、特に南面に多いようであった。
 雨池峠に戻り、草原の中を歩いていくと、縞枯山荘に出た。大きな山小屋で、休んでいるハイカーも多かった。その先僅かで、坪庭遊歩道と合わさり、観光客といっしょの歩きになった。ロープウェイの山頂駅付近は、朝の静けさとはうって変わって、大賑わいになっていた。
 横岳と池巡りに加えて縞枯山で6時間の歩きになった。丁度良い一日の歩きであった。蓼科温泉の公衆浴場で、温泉に入り、北八ヶ岳訪問を締めくくることができた。
 続いて大天井岳に登るべく、豊科ICに向かった。北アルプスのピークはかなり登ってきたが、まだ登っていないピークとして大天井岳があり、今年の夏山の目標になっていた。大天井岳は、裏銀座あるいは、燕岳から常念岳への縦走の途中に登られることが多いようであるが、単独行では車の回収が難しい。縦走はいつかの日にということにして、燕岳か常念乗越からの往復にすることにした。どちらから入るか迷ったが、先週の風邪引きのこともあって、簡単そうな燕岳経由にすることにした。
 中房温泉の駐車場は、燕岳と有明山登山のために以前にも訪れたことがあり、様子は判っていた。食料を買い込み、暗くなった林道を山に向かった。駐車場は、中房温泉手前の温泉橋の手前と渡った先にあるが、手前の駐車場には第二駐車場という標識が立てられていた。第二駐車場に入ってみると、車は一台も無かったので、これ幸いとばかりにテントを張った。橋向こうの第一駐車場には、車が何台も置かれているのが見えたのだが、少しでも歩く距離は少ない方が良いということで、皆、第一駐車場を利用しているようであった。到着する車に煩わされることもなく、静かな夜を過ごすことができた。夜中に空を見上げると、谷上に開けた空には星がきらめいていた。
 起きるなり、車を第一駐車場に移動させた。歩く距離は少しでも短い方が良い。駐車場は6割程がうまっていた。出発の準備をしている間にも、数台のタクシーが、登山者を乗せて中房温泉に向かっていった。手早く朝食をすませ、歩き出した。
 テント泊の装備は、1泊2日の分とはいえ、重たく感じられた。中房温泉への車道歩きで早くも汗が噴き出てきた。快晴の日になりそうで、気温の上昇が気に掛かった。夏山シーズンもピークを過ぎ、平日ということもあるためか、登山口付近には、数グループが出発の準備をしているだけであった。
 合戦尾根は、いきなりの急登で始まる。といっても、細かくジグザグが切られているため、足の運びに無理が生じずにペースは保ちやすい。先回燕岳に登ったのは、1995年8月26日であったから、7年ぶりということになる。以前よりも登山道が歩きやすくなっていると感じた。ザックも重いため一歩ずつゆっくりと登っていくことになった。合戦尾根は、第一ベンチ、第二ベンチ、第三ベンチ、富士見ベンチ、合戦小屋がそれぞれ、およそ30分おきにならんでいる。歩き始めの辛さは別にして、第三ベンチから富士見ベンチあたりが、傾斜も急になって辛い感じがした。第三ベンチ、富士見ベンチあたりになると、休んでいる登山者も多くなった。夜明けが遅くなったせいもあって、出発が5時30分になってしまったが、暗いうちから歩き出した者も多かったようである。富士見ベンチからは、富士山をはっきりと眺めることができた。青空が広がり、稜線に出た時の大展望の期待が膨らんだが、ガスが出てくる前に登り着かなければと気はあせった。
 合戦尾根に到着して、ひと息つくことができた。名物のスイカもひと切れ800円で売られていた。見ていると、スイカお姉さんが、慣れた手つきでスイカを切り分けていた。300円のファンタグレープを飲み干し、それでも足りずにコーラを飲んだ。さすがにビールは飲まないでおいた。気温がかなり上がって、喉の渇きもかなりのものになっていた。
 小屋の脇に合戦小屋の由来が書かれているのに気づいた。
『合戦小屋地名
今を遡る恒武天皇の御代・・・
中房温泉、有明山に住む魏石鬼あり、自らを八面大王と呼称し妖術を使う大鬼雲を起こし、霧を降らし天を飛び、里に出ては財宝、婦女を掠奪し、山野に出ては社寺仏閣を破壊し、狼藉三昧の明け暮れといわれた。
 坂上田村麻呂、魏石鬼を滅ぼさんとするも魔力強く、敗戦の連続と思うにまかせず、栗尾山の観音堂に願をかけ、霊夢をさずかる。
「三十三節の山鳥の尾で作った矢を使えば・・・」
甲子の年、甲子の月、甲子の刻に生まれた男矢村の矢助この尾を献上、ついに中房川上流の谷間で大合戦の末、魏石鬼を討ちはたす。合戦の沢、今の合戦沢をいう。
合戦小屋の下、深い谷間、その地に合戦の歴史あり、今を遡る恒武天皇の御代・・・
鬼の五体はバラバラに埋められて蘇生を防ぐ、耳塚、首塚、立足等、地名として今に残る。
山鳥の尾を献上した矢村の矢助、夫を魏石鬼に殺された母に育てられる。母は云う。
「命あるもの全て親子、夫婦の関係有り、殺さばなげくもの必ずあり。」
矢助、一切の殺生をせず成人し、ある時ワナにかかった山鳥を救い放つ。その年の暮矢助嫁をめとる。三年後坂上田村麻呂との出会いとなる。嫁のさし出す山鳥の尾を献上、矢助、永遠の生活を保証する恩賞を得る。翌日、嫁一通の手紙を書き置いて姿なし。
「我、三年前に助けられし山鳥、高恩にむくいるべく、かしづくも、もはやその要もなし。三十三節の尾羽は、我の尾なり。」と・・・
今を遡る恒武天皇の御代・・・
合戦の歴史あり、合戦小屋の下、深い谷間。』
読んでみると、独特の節回しのある文章で面白いと思った。おかげで、合戦小屋の由来が判ったが、読もうとする登山者はいなかった。
 合戦小屋では、のんびりと休んでしまったが、先を急ぐ必要もあり、歩き出すことにした。中学生の団体が下ってくるのにすれ違った。挨拶を交わすのに草臥れたが、団体をやり過ごすと、再び静かな登山道に戻った。
 槍の穂先も見えだして、展望の期待はますます膨らんだ。合戦ノ頭に出ると、燕山荘が尾根の先に見え、その右手には燕岳の山頂が広がっていた。大天井山に至る稜線も一望でき、槍ヶ岳が肩から上の姿を見せていた。これならば、稜線上からは、心ゆくまで展望を楽しむことができそうであった。
 合戦ノ頭からは、眺めの良い尾根歩きになり、燕山荘は、はっきりと見えているのだが、なかなか近づいてこなかった。ピークの右手に回り込むように登っていくと、テン場の一画に到着し、その上が燕山荘前の広場であった。テントも数張りしかなく、空いていた。ここでテントを張ってしまおうかとの誘惑に駆られたが、コースタイムを考えると、これから空身で大天井岳を往復するのは、無理ではないが慌ただしそうであった。やはり、大天荘のテン場に泊まるのが良さそうであった。
 素晴らしい展望が広がっていた。燕岳は、間近にピラミッド型の山頂を見せ、白砂と岩とハイマツの緑のコントラストが美しかった。野口五郎岳から水晶岳にかけての裏銀座コースの稜線が長く続き、その左手には鷲羽岳と三俣蓮華岳。北鎌尾根の先には槍ヶ岳が天に向かってその尖頭を突き上げていた。穂高連峰は、稜線のかげになっていたが、大天井岳に向かって歩き出せば、その眺めも開けるはずであった。この眺めを見れば、登りに流した汗は報われた。
 ザックを置いて、ペットボトルのお茶だけを持って燕岳を往復してくることにした。燕岳へは、海岸のように白砂が敷き詰められた中に登山道が続いている。前衛芸術のような岩のオブジェが登山道の脇に並んでおり、写真撮影のために、のんびりした歩きになった。日本百名山でなくとも、燕岳の人気が高い理由が判る。コマクサも時期は遅くなっているが、花が残っていた。
 足元がずり落ちる砂礫の斜面を登ると、燕岳の山頂に到着した。北側の展望が広がった。立山と剣岳、蓮華岳と針ノ木岳、鹿島槍ヶ岳から白馬岳に至る稜線といった北アルプス北部の山々を眺めることができた。先客が一人いるだけの山頂で、心ゆくまで展望を楽しんだ。
 ところで、この燕岳の読み方であるが、インターネットの友人から面白い質問があった。山渓JOYの山バッチコレクションで、燕岳のローマ字表記を見ると、ほとんどが、「つばくらだけ」になっているという。「つばめだけ」は論外にして、ガイドブック等では「つばくろだけ」になっているが、どうしてだろうというものであった。
 そこで、日本の山岳標高一覧1003山や、日本山名総覧を見ると、やはり「つばくろだけ」になっていた。しかし、コンサイス日本山名辞典では、つばくろだけ(つばくらだけ)と併記されていた。そこでさらに調べてみると、長野の山に関する代表的著書の清水栄一氏の「信州百名山」に、以下のような記載があった。
 「ツバクラとはいつ頃から呼びなわされたのか知らないが、明治三十九年に出版された「日本山嶽志」にも屏風岳以外にその名は見えていない。
 クラというのは岩という意味があるので、おそらく峯上のどれかの岩につけられた名前が転訛したものと思う。
 最近はツバクロと呼ばれることが多いが、正しくはツバクラと呼ぶべきである。」
 燕岳の山頂一帯は、特徴のある岩峰が並んでいるから、岩を示すクラという説にもうなずけるものがある。
 しかし、広辞苑をひいてみると
 つばくろ:ツバクラの転、燕の異称
 つばくら:「燕」「つばくらめ」の略
 つばくらめ:ツバメの古称
 清水栄一氏の岩峰説も少しあやしく、「燕」の字をいろいろに呼んだだけのようにも思われる。
 山名考証には、まずは広辞苑を引いてみるというのが基本か。
 燕山荘に戻り、再び思いザックを背負った。大天井岳はまだ遠く、もう一頑張りする必要があった。幅広の稜線を緩やかに下っていくと、小岩峰が現れ、登山道は岩の間を縫うように続いていた。これが蛙岩のようであったが、どの岩をさすのかは判らなかった。登山地図では、行きと帰りでは、1時間と50分で、10分ほどしか変わらないことから、平坦な稜線歩きと思いこんでいた。蛙岩を過ぎて、下り気味に歩いていくと、大下りの頭という標識が現れた。見ると、一旦大きく下って、その先で大きく上っていた。これならば、行きも帰りも時間的には大差無いことは判るが、上り下りの労力は大きなものになる。等高線を良く見なかったのが失敗であった。高く聳える大天井岳や、湯俣川から一気に上がる北鎌尾根の先の槍ヶ岳を眺めながら、まずはひと休みとした。
 鞍部に向かって急降下した後は、尾根の西側に広がるお花畑に沿っての上りになった。秋の訪れを告げるようにトリカブトやウメバチソウの花が目立った。再び稜線の上に出ると、砂礫地のほぼ水平な道が続くようになった。これくらいの道なら、足に負担はかからないはずであったが、強烈な太陽の日差しがもろにあたり、体力を一気に消耗した。昼も過ぎてしまったことから昼食をとることにした。大天井岳も目の前に迫ってきており、山頂に向かう登山道を目でおうことができた。ザックには、缶ビールが1本入れてあった。飲みたかったのだが、最後の登りを考えると、足が止まってしまう恐れがあった。お茶を飲んで我慢することにした。山頂でのビールを目の前にちらつかせて、最後の急登を頑張ることにした。やけに暑いと思ったら、松本では、34.9度でこの夏一番の暑さであったという。
 日向で休んでいたため、疲れはあまり取れなかったが、先に進むことにした。展望よりは日陰という願いが通じたのか、雲がかかるようになってきた。鎖の掛かった8m程の岩場を下ると、その鞍部の岩に喜作新道を開いた小林喜作のレリーフがはめこまれていた。ここが切通岩であった。
 鞍部からは、ザクザクの砂礫地の登りになった。三叉路を左に進み、大天荘への最後の登りにとりかかった。30分ほどの登りであったが、この日で一番辛い登りになった。それでも登るに連れて、傾斜は次第に緩やかになり、尾根を左に乗り越すと、今日の目的地の大天荘に到着した。
 テン場は、かなりの広さがあったが、テントは、ひとつも張られていなかった。どこでも選べるとなると、迷って、なかなか決めることができなかった。脇にベンチのある一画を選んでザックを下ろした。テン場の受付にいってみると、生ビールという張り紙が目に入った。幕営料500円と生ビール代700円の支払いになった。テントを張る前に、生ビールを飲み干した。大天荘のテン場は、期待していたとおりに槍ヶ岳から穂高岳の眺めが目の前に広がっていた。午後に入って、山頂部が雲に覆われているのが残念であったが、明日の朝の展望が期待できた。喉の渇きはいやされた。
 テントを張り終えたところで、大天井岳の頂上に登ってくることにした。缶ビールとお菓子を持って、山頂に向かった。緩やかな登りで、直に大天井岳の頂上に到着した。山頂には、小さな祠と三角点が置かれていた。大天荘の前からは見えなかった常念岳も姿を現した。大天井岳は、三方に縦走路が延びた要の位置にある山で、3000mに少し足りない標高を持つ山であるが、山頂を独り占めしての時間が過ぎていった。ようやく、一人の登山者が登ってきて、記念撮影のカメラ交換で言葉を交わすと、今晩は大天井ヒュッテ泊まりで、槍ヶ岳に抜けるという。仲間は、疲れて、大天井岳はパスして、分岐からそのまま巻き道を進んだという。確かに、分岐から見上げる大天井岳への登りは、くじけそうになるが、この山に登らずに通過してしまうのはあまりにももったいない。この夜、大天荘に泊まったのは7名、テント泊は2名の静かな山であった。
 朝は、登山者の足音で目を覚ました。テントの外に出ると、東の空が赤く染まっていた。太陽は、浅間山の左に姿を現した。今度は、槍ヶ岳に向かってカメラをかまえた。下部は常念山脈の影に入っているが、山頂部が赤く染まった。山頂部に泊まらなければ、見ることのできない風景であった。次は、澄み切った朝の太陽のもとでの展望が楽しみであるが、その前に、急いで朝食をとり、テントの撤収を行った。太陽が昇ると、山の表情も変わった。槍ヶ岳から穂高岳にかけての展望を心ゆくまで楽しんだ。
 コーヒーでも飲みながら、ゆっくりと腰を据えていたかったが、今日は下山して、夕方までに松本のホテルに入る必要があった。去りがたい展望のため、大天荘からの出発は、6時半近くの遅い時間になっていた。
 大天井岳下の分岐までは、あっという間の下りであった。大天井岳を振り返りながら、裏銀座方面の山を眺めながらの歩きが続いた。鞍部への下り付近からは、燕岳からの登山者と出会うようになった。大下りの頭への登り返しも、朝の元気なうちということもあって、難なく到着した。ここで再び、展望を楽しんだ。
 燕山荘周辺は、朝の慌ただしい時間帯も過ぎて、数人の登山者がいるだけであった。小屋の売店を見物していると、東側に回り込んだところに、飲み物コーナーのカウンターがあった。音楽も流して、観光地並のノリであった。みると、生ビールを売っており、大1000円、中800円、小600円とあった。下りのことも考えて、中ジョッキを注文した。ここの生ビールは、グラスのジョッキに入って出てきた。ジョッキ片手に見る山々の展望は、さらに楽しかった。
 少し酔った勢いもあってか、下りの足は快調であった。下るにつれて気温も上がってきて、汗が噴き出てきた。すれ違う登山者も多かったが、かなり下の方で、地元主催のツアー登山の一行と出会った。30名ほどの団体であったが、一人では登る自信がない初心者が多いようであった。この暑さの中を登り続けるのは大変そうであった。
 下山して駐車場に戻ると、車でほぼ埋まっていた。いつもの有明荘に移動して、温泉に入って、昼食をとった。安曇野に下ると、猛烈な暑さに閉口した。
 松本での用事を済ませ、もう一日、どこの山に登るか迷った。当初の予定では、安曇野あたりの里山を考えていたが、この暑さでは、辛い思いをしそうであった。日帰りで登れる北アルプスの山を考えていくと、焼岳を思いついた。焼岳は、日本百名山巡りとして、1993年8月29日に新穂高温泉から往復して登った。焼岳への登山道として新中ノ湯コースが最近開かれており、このコースなら上高地の混雑とも無縁に気楽に登山を楽しめそうであった。
 夕方、白骨温泉によってみたが、駐車場は観光客でごったがえしていた。少し離れている泡ノ湯で温泉にはいったが、ここも混雑しており、800円の料金ということもあり、わざわざ寄り道をするほどではなかたかと思った。
 以前は、安房峠を越えは、観光シーズンは大渋滞することで有名であったが、安房トンネルのおかげで、旧道を通る車は少なくなっている。まずは、安房峠に登ってみた。峠の茶屋は、交通量が減ったためか、閉じられていた。峠の上に送電線の鉄塔と、トンネルの排気口があり、踏み跡が続いていた。登ってみると、穂高岳や焼岳を眺めが広がった。奧に向かって踏み跡が続いており、安房山へ登ることができるのか興味がわいた。
 新中ノ湯コースの登山口には、車が停まっており、傾斜もしており、テントを張るにはあまり良くなかった。上高地乗鞍林道の分岐付近が、道路の幅が広がっていたため、ここで夜を過ごすことにした。夜になって通る車も減ったのは期待通りであったが、分岐であったため、行く先を確認するために車を停めるものが多く、眠りが妨げられたのは誤算であった。いくら旧道といっても、国道脇で寝ようとするのだから仕方のないことである。
 起きるなり、登山口に車を移動させた。5時前にもかかわらず、駐車スペースは、早くも八割ほどうまっていた。
 登山口からは、しばらく尾根の右手に回り込むような道が続いた後、急な登りが始まった。幅の広い尾根に開かれたつづら折りの登山道であった。登山道は良く整備されており、快調に歩き続けることができた。周囲には、始めブナ林も見られたが、しだいに針葉樹がめだつようになった。小ピークをトラバースして僅かな下りになるところでは、焼岳の山頂が木立の間から顔をのぞかせた。
 傾斜が緩み、白樺が点在する笹原を進んでいくと、左右に岩峰が並んだ焼岳の山頂が姿を現した。緑に彩られた麓の斜面とは異なる、灰色の山肌を見せていた。釜トンバス停と標識に書かれた以前からの登山道を合わせると、焼岳の山頂部に向かっての登りが始まった。噴火の際に土石流が下った跡なのか、深く抉られた涸れ沢の縁に出ると、スプーン状に抉られた窪地の登りになった。一気に高度を上げていく、辛いが爽快感のある道であった。岩が転がる中に、ペンキマークを注意しながら拾う必要があった。南峰直下の鞍部からは、噴煙が勢いよく上がっていた。どこに登り着くのかと思っていたら、この鞍部に上がることになった。すぐ脇には硫黄で黄色く染まった岩塔が立ち、噴煙が勢いよく上がっていた。火口の池もすぐそこに見下ろすことができた。急登もひと段落して休みたくなる所であるが、火山ガスが恐ろしくて先を急ぐことにした。北峰を右から回り込んでいくと、もう一つの噴火口が登山道脇に現れた。ここからの噴煙は登山道までたれこめてきて、硫黄臭いガスを吸い込みながらの登りになった。安達太良山の沼ノ平や草津白根山のふりこ沢並のガスであったら、命はないところであろう。
 中尾峠からの登山道を合わせると、そのすぐ上で、焼岳山頂に到着した。山頂には、二名の先客がいた。昨晩は、焼岳小屋に泊まったとのことであった。新中ノ湯コースを2時間で登ってきたというと、驚いていた。登山地図では、3時間15分と書かれているが、日帰りの軽装ではそれほどはかからない。新中ノ湯コースから、もう一人の登山者が到着した。
 素晴らしい展望であった。まず目がいくのは、西穂高岳から奧穂高岳、そこから横に張り出した前穂高岳の眺めであった。槍ヶ岳は遠くにその尖頭を見せていた。笠ヶ岳は、朝日を受けて、折戸岳に至るのびやかな稜線を見せていた。霞沢岳は逆光の中に黒いシルエットになっていた。乗鞍岳も横に広がった姿を見せ、時折自動車の窓ガラスの反射が目に入ってきた。
 ビールを飲みながらの朝食になった。バンダナなどではでな服装をした二人連れが到着し、我々四名の写真を撮らせてくれといってきた。聞くと、山渓JOY の取材班とのことであった。居合わせたのは、私を含めて、典型的な中高年ばかりであったが、雑誌の購入者も中高年であろうから、それで良いのであろう。雑誌では、若い女の子ばかりをモデルに使いたがるが。ボツにされなければ、来年の夏山号に載るはずで、楽しみにしておこう。
 1時間も山頂にいて展望にも見飽き、他の登山者で山頂も混雑してきたため、下山に移ることにした。鞍部に向かっての登りでは、皆苦労しているようであった。道が良く整備されているため、下山の足も速く、あっさりと登山口に戻ることができた。登山口周辺の車の数は、路上駐車も含めて30数台に増えていた。
 平湯から富山を回ろうかとも思ったが、やはり松本経由で帰ることにした。中ノ湯は、清掃中ということで温泉には入れず、沢渡の温泉で入浴して帰路についた。

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