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火打山、妙高山


【日時】 2002年6月22日(土)〜23日(日) 一泊二日
【メンバー】 テクテク会(とんとん、スミレ、ホッキョククマ、えび太、むーむー、Akira)
【天候】 22日:雨 23日:雨

【山域】 妙高連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 火打山・ひうちやま・2461.8m・三等三角点・新潟県
 妙高山・みょうこうさん・2454m・なし(2445.9m・一等三角点本点)・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/妙高山/妙高山、湯川内
【コース】 笹ヶ峰より
【ガイド】 アルペンガイド「妙高・浅間・志賀」(山と渓谷社)、妙高・戸隠を歩く(山と渓谷社)、山と高原地図「妙高・戸隠」(昭文社)
【温泉】 杉野沢温泉苗名の湯 450円 貸しタオル付き

【時間記録】
6月21日(金) 20:30 新潟発=(北陸自動車道、上信越自動車道、妙高高原IC、杉の沢 経由)=22:40 笹ヶ峰  (テント泊)
6月22日(土) 6:05 笹ヶ峰発―7:00 黒沢橋〜7:09 発―7:54 十二曲り上〜8:00 発―9:18 富士見平―10:29 高谷池〜11:53 発―12:39 尾根上―13:40 火打山〜13:56 発―14:39 尾根上―15:00 高谷池  (テント泊)
6月23日(日) 6:00 高谷池発―6:26 茶臼山―6:55 黒沢池ヒュッテ〜7:06 発―7:22 大倉乗越―8:03 燕温泉分岐―9:11 妙高山三角点―9:18 妙高山〜9:32 発―9:39 妙高山三角点―10:23 燕温泉分岐―11:03 大倉乗越―11:19 黒沢池ヒュッテ〜12:02 発―12:56 富士見平〜13:04 発―13:47 十二曲り上〜13:56 発―14:21 黒沢橋〜14:28 発―15:09 笹ヶ峰=(往路を戻る)=19:20 新潟着

 越後富士とも呼ばれる妙高山から西に、火打山、焼山、金山、雨飾山へと続く峰々を妙高連峰と呼ぶ。日本百名山にもこのうちから三山が選ばれて、人気の山域になっている。これらのピークをつなげる縦走路は、現在は、火山活動のため登山禁止となっている焼山で中断されている。隣り合う妙高山と火打山は、南山麓の笹ヶ峰から入山し、中間部の高谷池ヒュッテあるいは黒沢ヒュッテで泊まることによって、一泊二日で余裕を持って登ることができる。
 昨年の夏山に合わせて4、5人用のテントを買って、てくてく会の仲間で飯豊に登ったが、その後使わないままになっていた。もっとテント泊を行おうということで、高谷池に泊まり、火打山に登ろうという計画を立てた。皆の予定の都合で、6月下旬の山行になったが、梅雨が気に掛かるところであった。参加者は、6名が集まった。むーむーとスミレは、テント泊はこれが初めてであった。
 火打山は、登山を始めた1991年9月24日に初めて登ったが、さらに昨年2001年5月26日にも登り、残雪期の様子は判っていた。火打山に登るなら妙高山にもと欲がでてくるが、困ったことが起きた。5月下旬に長助池付近で道に迷って遭難した人がいて、7月始めの山開きのための登山道整備まで登山は自粛するようにという通達が出た。登山道の整備は、6月19日に行うというので、ぎりぎりまで様子をみることにした。6月20日に妙高村役場に電話を入れて問い合わせをした。その結果、登山道の整備を行ったので登山自粛は解除。大倉乗越のトラバース部は、雪渓にステップを切ったので、キャラバンシューズでも歩けて、アイゼンの必要は無し。火打山への登りでは雪のある所もあるので注意ということであった。一応、妙高山にも登る予定としてよさそうであった。
 早朝に登山口の笹ヶ峰に集合するとなると、新潟発は真夜中になるため、前夜発とした。ワールドカップをラジオで聞きながらの高速道のドライブになった。6月は、山行記録のまとめが、ワールドカップのテレビ観戦のためにすっかり遅れてしまっている。
 笹ヶ峰には何度か訪れており、様子は判っていたが、火打山の登山口が変わったとの情報を、ホームページの「高谷池ヒュッテ通信」より得ていた。以前の登山口は、確かにロープが張られて侵入禁止になっていた。その少し先が、笹ヶ峰休暇村の駐車場になるが、道路をはさんだ右手に新しく火打山・妙高山登山口の駐車場が設けられていた。何台もの車も停まっており、夜中にしては賑わっていた。待ち合わせは、休暇村の方の駐車場だったので、移動した。休暇村の大駐車場は、数台しか車は停まっておらず空いていた。登山口の駐車場にはトイレは無いため、夜を過ごすには、休暇村の駐車場の方が良い。
 とんとん一行はすでに到着し、テントの中で休んでいた。合流して、改めて飲み会を始めたが、スミレは車酔いで寝たがっていたのと、翌朝は早いので、早めに切り上げた。車の脇に、共同装備で使う2〜3人用のテントを張って寝た。
 4時に目を覚ますと、火打山の方で稲光が光っていた。これはまずいと、急いでテントをたたんだ。直に雨が降り出し、雷雨が始まった。雲の流れも速そうなので、少し様子見をすればなんとかなりそうであった。むーむーも到着したので、駐車場の売店の軒下に移動して、朝食と共同装備の分担を済ますことにした。
 今回の主な共同装備は、テント二張りと、夕食、それにメロンであった。テントひとつはホッキョククマに、メロンは、お約束で、一番若いむーむーに持ってもらうことにした。雨具やスパッツを付けて、雨の中を歩き出す準備をした。雷鳴が黒姫山の方に遠ざかり、雨も小降りになったので、登山口の駐車場に移動した。雨のために出発できないで、様子見をしている登山者がいた。
 登山口には、木でできた新しいゲートが設けられていた。夜中に見た時はトイレかと思ったのだが、中にベンチが置かれただけの、用途不明のものであった。雨宿り用のものなのか。これと同じ物は、雨飾山の登山口にもあった。
 ゲートをくぐり、小雨の中を出発した。テントを持っているといっても、食料や水は多くはなく、現地で買えることからビールも3本しか持っていないので、泊まりの装備としてはザックは軽い方であった。歩き始めの沢には、立派な橋がかかり、木道歩きが続いた。すぐに、旧登山道が右手から合わさった。日本百名山の登山者が急増したことから、環境整備の補助金が出たという記事を読んだことがある。立派な木道が続いたが、これもその交付金のおかげだろうか。昨年訪れた時は、登山道周囲に露出した木の根をネットで覆い、土砂の流出を防ぐ工事をしていた。落ち葉が覆って、そのネットはほとんど見えなくなっていたが、登山者の増加による踏み荒らしを防止するには木道が有効ということになってしまうのか。周囲には美しいブナ林が広がっているにもかかわらず、地面に足を下ろさない木道歩きは、少し違和感を覚えた。雨も小降りとなり、雨具の上は脱ぐことができるうようになった。
 黒沢に到着してひと休みした。だらだら登りが続いたが、登山口からここまでは270mの標高差がある。疲れた者が多いようであったが、日帰り山行では経験していない重荷が堪えているようであった。沢の水を飲んだりして元気を取り戻した。
 黒沢橋を渡り、少し沢沿いに登った後、左方向にトラバースをすると、十二曲りの急登が始まる。ほんとうに十二曲がるのかどうか勘定をしてみた。小さなカーブもあることから、折り返して方向を変えるカーブを一つとして勘定してみた。途中、六番目のカーブを過ぎた所でひと休みして、さらに登り続けた。十二をカウントした所で、稜線に上がることができた。名前の通りのカーブがあることが判った。登り着いた所に十二曲りの標識が置かれているが、どうせなら、坂の下に立てておいて欲しいものである。
 次の目標は、富士見平であるが、しばらくは尾根沿いの急な登りが続く。十二曲り上から富士見平までは270mの標高差。これは、笹ヶ峰から黒沢までの標高差と同じであるが、歩いた時の感じはずいぶんと異なる。荷物も肩に重く感じられ、一番の頑張り所になった。雨が再び降り出して雨具を着込むことになった。登山道脇に、シラネアオイの花が現れて、苦しい登りの慰めになった。
 尾根が広がるようになると、オオシラビソの林の下を残雪が覆うようになった。昨年5月下旬に歩いた時に、ルートを見極めるのに苦労したところである。所々木道が顔を覗かせているので、夏道を辿ることができた。下山時の天気があやしげであったので、ガスにまかれた時の用心に赤布を付けながら歩いた。幸い、難しかったのは、ごく僅かな区間であった。スミレがかなり疲れたようなので、水を持って少し荷を軽くしてあげた。
 黒沢ヒュッテとの分岐の富士見平に出てひと息いれた。その先は、ピラミッド型をした黒沢岳を時折前方に眺めながらの、だらだら登りが続いた。黒沢岳の西山腹の巻き道に入ると、サンカヨウ、キヌガサソウ、ベニバナイチゴの花が多く咲いているのに出会った。本来なら、高谷池ヒュッテや火打山の眺めが開けるところだが、ガスが流れて、展望は閉ざされていた。トラバース道といっても、小さなアップダウンがあり、結構疲れる道であった。鞍部から僅かに登り返し、クロビソの林を抜けると、高谷池ヒュッテに到着した。
 小屋の前には、いくつものベンチが設けられていたが、再び降り出した雨に濡れていた。高谷池は、残雪の中から湖面を見せていた。激しくなった雨のため、ヒュッテの軒下にザックを下ろし、テン場を見てくることにした。池の左側にある水場の先の笹原の中に、上下二段のスペースのテン場があった。ここだけでは、つめても8張りくらいだろうか。高谷池ヒュッテのキャンプ指定地は、20張りというので、まだ残雪で覆われている所があるようである。上のスペースに陣取ることにした。
 小屋で幕営の受付をすると、一人400円であった。雨が小降りになったところで、ベンチに腰をおろして昼食をとったが、再び雨が激しく降ってきた。しばらく軒下で様子見になった。他のグループも到着し、軒下で昼食を広げたりするもので、混雑するようになってきた。雨が止んだところで、テントを張り、ザックをほうりこんだ。雨は完全には止みそうにはないため、小雨の状態になったところで、火打山に向かって出発した。
 小屋の前から池の右手に進み、黒沢ヒュッテへの道を右を分けて、湖岸沿いに進んだ。小さなミズバショウが咲いていた。池の対岸に回り込んだところで雪原を登り、振り返ると、池を前景にして三角屋根の高谷池ヒュッテがただずんでいた。定番ともいえる写真であったが、青空を映し込めないのが残念であった。天狗の庭は、湖面の周りにまだ豊富な残雪を残していた。周辺の湿原には、ハクサンコザクラが咲き始めていた。コバイケイソウは、花が葉のあいだから顔を覗かせたところ。イワイチョウの花も所々で咲いていた。天狗の庭からは火打山の眺めが素晴らしいが、あいにくの天候で、山頂への稜線がかろうじて見えるのみであった。しかし、花を楽しむことができて、皆満足であった。
 尾根沿いの登りになると、ガスがあがって、天狗の庭を見下ろすことができるようになった。晴の期待が高まったが、登るにつれて再びガスの中に入った。登山道沿いの、ミネザクラ、コイワカガミ、キヌガサソウ、サンカヨウ、ミヤマキンポウゲといった花を楽しみながらの歩きになった。途中、残雪で覆われた斜面を登るところも数ヶ所現れた。ガレ場の丸太の階段登りは、軽装といっても息が切れてきた。
 火打山の山頂は、休んでいたグループが入れ違いに下っていき、われわれだけの貸し切り状態になった。ガスのために展望はまったくなかった。これが三回目の登頂であるが、最初の時に、富士山まで見える大展望を楽しむことのできたのはビギナーズラックというべきか。山頂は寒いだろうということで、ビールの代わりにウィスキーを持ってきた。飲むと、腹にアルコールが熱くしみわたった。長くは休んでおられず、15分ほどで下山に移った。
 下山の時は、高谷池泊まりのグループとすれ違うようになった。戻ってみると、小屋の周辺も登山者で賑わっていた。定員90名のところ、70名ほどが予約していたようである。テントも他に3張りが増えていた。
 着替えをした後、時間は早かったが、宴会兼夕食モードに入った。夕食は、ウィンナーと野菜の炒め物とちらし寿司であった。アルファ米は高いため、パック入りご飯を持ってきたため、これを煮るのに、時間がかかった。9パックを煮たため、15分ずつ3回で45分かかった。大人数の時はアルファ米にした方が早い。炒め物をつまみながらビールを飲んで、ちらし寿司を作った。白米に寿司の素を入れ、うなぎのつもりのサンマの缶詰、蟹のつもりのカニカマ、錦糸卵、もみ海苔、大葉、ショウガをのせてできあがり。単純ではあるが、結構美味しい。大食漢がいるからといって、9パック分を使ったが、腹一杯になって、全部をかたづけるのには、休み休みになった。
 腹が苦しくなったところで、外を見ると青空が広がっていた。カメラを持って外に出た。ヒュッテからも人が出てきて、眺めを楽しんでいた。少し歩いて腹にも余裕ができたところで、メロンを食べることにした。売り場では、いろいろのメロンを売っていたが、つい1980円もする一番高いマスクメロンに手が出てしまった。一人あたり300円なので、北海道で食べた切り売りの夕張メロンとは値段は変わらない。残雪で冷やしたメロンは美味しかった。メロンをここまで持ち上げたむーむーに感謝である。
 ラジオで、ワールドカップの韓国とスペイン戦を聞いていると、驚いたことに韓国がPK戦で勝って、4強に進出した。皆、重荷での歩きに疲れたのか、7時すぎには早々と眠りに就くことになった。夜中には、時折テントを打つ雨音が耳に入ったが、荒れることはなく過ぎていった。気温は高めで、シェラフから肩を出して寝る状態であった。
 テントの撤収と朝食で2時間はかかるだろうと予想していた。4時に起きて、すぐに水を汲んできて湯をわかした。外は、風と共に霧雨が流れるといった状態であった。朝食をとってからテントの撤収、パッキング。雨が止んでおり、テントの外に出した荷物が濡れないですんだことはありがたかった。急いだつもりであったが、やはり出発は2時間後になってしまった。
 歩き出しは、朝の足慣らしといった感じで茶臼山への登りになった。登山道脇には、ツマトリソウやハクサンチドリの花も現れた。ツマトリソウは、裂片の先が赤くふちどられることから端取草の名前が付けられたという。妻取り草と聞いて怒り出した人がいたと聞いたが、どのような事情があったのやら。花こそいい迷惑である。もっとも、図鑑には、妻取草という名前も併記されているので、名前の方がかってに一人歩きしはじめているようである。
 茶臼山の山頂は、どことははっきりせず、下りにかかったことから山頂を通り越したことが判った。黒沢池が眼下に広がり、ドーム状の黒沢ヒュッテも見えてきた。残雪で埋まった沢を渡ると、ヒュッテの前に出た。妙高山へは、軽装で往復するつもりであった。登山道を少し進んだところで、ザックをデポした。
 軽装になると、やはり足は軽くなった。大倉乗越への登りにとりかかった。この登りもシラネアオイの花が多かった。意外に早く大倉乗越に到着した。問題は、ここからであった。下り始めると、すぐに残雪に出会った。急傾斜で落ち込んでいたが、ここは残雪に足を踏み入れて、木の枝を掴みながら数メートル下って左手に折り返せば通過できた。その先は、夏道の下りが続いた。途中、ガレた急な下りが現れたが、足元に注意しながら通過。ほぼ下って、トラバース道に入ったが、ここが一番の難所と思っていた。妙高山に登った二回目の1997年6月29日の山行では、燕温泉から登り、長助池分岐付近で道に迷い、ここのトラバース道に誤って進んでしまった。残雪のトラバースを見て、分岐を行きすぎたことを知ったが、残雪時には、ここの通過は難しいなと思った覚えがある。今回の山行では、このトラバースの状態が悪ければ引き返すと皆には言ってあった。
 草付きを抜けていくと、数10メートルの幅のある雪渓の横断が現れた。幸い、ロープが張られており、傾斜はきついものの、踏み跡のステップもあり、無事に通過できた。次に現れた同じくらいの幅の雪渓が問題になった。今度はロープが張られておらず、踏み跡もそれほど明瞭ではなかった。男性陣に前に出てもらい、できるだけステップを切りながら歩いてもらうことにした。傾斜もかなりあり、滑落すれば、200メートル程下の林まで停まらないように思えた。慎重に歩いて通過した。長短5本程の雪渓のトラバースを終えると、長助池との分岐に到着した。
 妙高山方向は、尾根上まで雪渓の登りが続いていた。傾斜はそれほど強くはなく、帰りは気持ちよく下ることができそうであった。長助池方面を見ると、テープの列が続いていた。山開きにあわせた登山道整備でつけたもののようであった。妙高山から雪渓を下ってくると、岩に左方向の矢印が書かれているのに出会う。これは大倉乗越方面への指示であるのだが、雪渓をそれ以上下らないような印かと思って、つい、矢印の方向に進んでしまう。私自身がそのような間違いをしたのだが、5月末の遭難者も同じミスをしたのではないだろうか。
 雪渓の登りも、歩き始めればすぐに慣れ、楽しむ余裕も出てきた。尾根の上部に出ると、急な登りが始まった。妙高山を遠くからみれば、裾野を長くひく外輪山の中から釣鐘状の山頂が突き出ている。この急斜面を突破しないことには山頂には到達できない。大きな石を乗り越えたりしたりで、足場も悪い。我慢の登りが続いた。
 ようやく傾斜が緩むと、一等三角点の置かれた北峰に到着した。巨岩の間を歩いていくと、直に、岩の上に将軍地蔵が奧かれた最高点の南峰に到着した。誰もいない山頂であった。あいにくとガスが流れて展望はなかった。食事を取りながらひと休みした。記念写真を撮った後、早々に下山に移った。
 北峰に戻ると、15人ほどの団体が休んでいた、どこからかと聞かれたので、「妙高山の山頂から戻ってきた」、というと、「ここは山頂ではないのか」という声が上がった。「ここは三角点ピークで、最高点はもう少し先にある」と教えた。「最高点に立たなければ、日本百名山に登ったことにならない」といって、歩きだそうとしていた。確かにその通りであるが、事前にガイドブックを読めばそれくらい判ることである。
 山頂のとらえ方は難しい。深田久弥の「日本百名山」の初版本では、妙高山の標高は2446メートルと書かれている。この当時、山の標高は、一般に三角点の標高で現されていた。しかし、三角点は最高点に置かれているとはかぎらず、測量の都合の良い所に置かれている。そこで、山の標高を詳しく調べてまとめられたのが、「日本の標高一覧―1003山―」(平成3年8月 建設省国土地理院)である。「日本百名山」では、三角点の標高が書かれていると言って、そこを山頂だと主張してくれれば、この人達に一目置いたところであるが。そこまでは深読みするものはまずいない。日本百名山を読み返しても、どちらのピークを山頂ととらえていたのかは書かれていなかった。
 急坂を転げ落ちるような下りが続いた。雪渓も無事に下って、再び雪渓のトラバ−スということになった。見ると、行きとは違って、スコップで足場が彫り込まれて、滑落の心配が無くなっていた。どうやら、地元関係者が登山道の整備を行ったようであった。難所の通過の心配が消えてほっとした。気がゆるんだのか、雪渓のトラバースのどうということもないところで、とんとんが足を滑らせて枝を掴んであわやということになった。大倉乗越もひと頑張りで登り返すことができた。とんとん一行は、以前に登った時は、ここでバテバテになったというが、その後に脚力がついたようである。
 雨も止んだいたので、黒沢ヒュッテのベンチで昼食を食べた。山での昼食にビールは付き物であるが、他の者は水を飲んでいた。下りが気になっているようであった。
 小屋の前の雪渓をひと登りした所から笹ヶ峰への道が始まっていた。湿原の中の木道歩きが始まった。周辺にはミズバショウ、ハクサンコザクラ、チングルマのお花畑が広がっていた。湿原の上をガスが流れていく風景は、晴の時とは違った美しさを見せていた。カメラのレンズが曇ってしまい、写真撮影はお休みになってしまった。
 黒沢池から富士見平への道は、思ったよりも長く感じた。登山道も、雨のために泥田の状態になってきた。富士見平でひと休みしてから、本格的な下りに取りかかった。下半身は泥だらけになり、めざすは温泉の思いで足を速めた。黒沢橋まで下ってほっとしたものの、この先の長い木道歩きに最後の力を振り絞る必要がある。登山口まであと僅かというところで、足の遅い団体に追いついた。なかなか追い抜かせてくれず、いらついた。夏の最盛期には、この木道では渋滞になって大変そうであった。
 登山口のゲートをくぐって登山は無事に終了した。このゲートは、登山の開始と終了のけじめをつけるのには役にたっているようである。
 荷物をかたづけてから、杉の沢の温泉をめざしたが、その前に笹ヶ峰の京大ヒュッテ前にできた雪山賛歌の碑を見物した。温泉に入ってさっぱりして、早めに解散とした。家に戻ってから、テントを干したり、靴の泥落としやらで、泊まり山行の後かたづけは大変である。
 梅雨の合間の登山で、やはり雨に祟られて展望は得られなかったが、この時期でなければ見られない花を楽しむことができた。山もまだ静かで、梅雨だからといって山に行かないのはもったいない。

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