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菅名岳縦走(風越山〜三五郎山〜大蔵岳〜菅名岳〜鳴沢峰〜花見山)


【日時】 2002年5月25日(土) 日帰り
【メンバー】 てくてく会(とんとん、taku、ほっきょくくま、えび太、エンジェルン、Akira)
【天候】 晴

【山域】 菅名山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
風越山・かざこしやま・806m・なし・新潟県
三五郎山・さんごろうやま・910m・なし・新潟県
大蔵岳・おおくらだけ・864.3m・三等三角点・新潟県
菅名岳・すがなだけ・909.2m・二等三角点・新潟県
鳴沢峰・なりさわみね・880.1m・三等三角点・新潟県
大谷山・おおたにやま・660m・なし・新潟県
花見山・はなみやま・649.1m・三等三角点・新潟県
【コース】 登り:風越尾根 下り:花見尾根
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/新津/村松、馬下
【ガイド】 藪山ネットの情報
【温泉】 村松さくらんど温泉 700円 貸しタオル付き

【時間記録】 5:30 新潟発=(R.49、馬下橋、小山田ヒガン桜樹林公園駐車場、上大蔵 経由)=7:15 大蔵遺跡〜7:24 発―7:31 送電線鉄塔―8:38 分岐―9:23 不動堂山分岐―9:42 風越山〜9:50 発―10:59 861mピーク―11:45 三五郎山―12:00 大蔵岳〜13:00 発―13:16 三五郎山―13:55 菅名岳〜14:05 発―14:44 鳴沢岳〜14:49 発―14:52 花咲温泉分岐―15:01 小山田分岐―15:22 鹿返道―15:41 花見山〜15:57 発―16:10 送電線分岐―16:29 公園上部〜16:35 発―16:50 小山田ヒガン桜樹林公園駐車場=(村松、五泉、新津、R.403、茅野山IC、R.49 経由)=19:30 新潟着

 菅名山塊は、阿賀野川と早出川に挟まれ、新潟平野の南東端に沿って広がる山塊である。北は阿賀野川より、鳴沢峰、菅名岳、三五郎山、大蔵岳、風越山、不動堂山と頂稜を連ねて早出川に落ち込んでいる。美しいブナ林、酒の仕込み水として有名になったどっぱら清水など、手頃に自然と親しむことのできる山である。菅名山塊には、多くの登山道が整備され、周遊コースをとることもでき、新潟市周辺における人気の山のひとつになっている。
 風越山は、三五郎山と不動堂山の間に位置する山で、菅名山塊中の名のあるピークの中で唯一登山道が無かった。しかし、最近の登山ブームの為か、現在では、このピークにも大蔵集落から道が切り開かれている。
 インターネットの情報で、大蔵集落より風越山へ道が切り開かれ、残雪期に歩いたという報告を得た。今年は例年にない雪解けの早さで、残雪歩きの時期を逸したが、とりあえず登山コースを確かめておきたいと思った。とんとんが地元出身だったことを思い出し、登り口の大蔵遺跡の位置についての質問メールを送った。大蔵遺跡は、子供の頃の遊び場だったとのことで、さっそくコースの下見に行ってくれた。しっかりした踏み跡があり、残雪で辿れなくなって引き返した所からは、風越山までもう少しの距離であったという。一緒に歩こうという話になったが、お互いの日程の都合で、山行日は5月25日ということになった。残雪も新緑も通り過ぎて、初夏といっても良い時期の山行になった。せっかく歩くなら、風越山から三五郎山に抜けて、鳴沢峰から花見山経由で下山するという欲張りコースを計画した。もっともこれは、道がつながっていることを前提としており、風越山まで登れれば上出来という軽い気持ちであった。てくてく会で参加者を募集したところ、藪山エキスパートのtakuさんが参加することになり、これなら、絶対に縦走できそうに思えてきた。総勢六名となり、とんとんも、藪漕ぎ入門山行ということで、楽しみにしているようであった。
 当日は、下山口の小山田ヒガン桜樹林公園駐車場に集まることにした。朝方水原に向かって車を走らせると、五頭山塊は全体が見えているのに、菅名山塊の山頂部は雲に覆われていた。ガス男のエンジェルンが参加しているためなのか。集合場所を知らずに通り過ぎて、菅名岳の登山口へと通り過ぎてしまう者がいるとやっかいなので、少し早めに到着しておくことにした。全員の集合を待つ間に、駐車場に入ってきて、周辺の様子を見ては再び林道の先に進んでいく車がいた。花見山へのコースは知られていないため、登山姿の者がいるのを見て、ここが菅名岳の登山口と思いこんだようであった。
 最後に、菅名岳登山口の標識を見落として迷子になったというtakuさんが到着したところで、とんとんとえび太の車に同乗して大蔵遺跡に向かった。県道435線に進んで、上大蔵の標識から集落に入り、山に向かって進むと、畑の中の細い道に変わった。二俣道を左に進むと、大蔵遺跡の広場に到着した。草地の広場のかたわらに説明板と石碑が置かれていた。

五泉市指定文化財(昭和四十三年指定)
史跡 大蔵遺跡
 この遺跡は昭和三十一年に発見されて、昭和三十五年より三年間にわたって調査を行い、大蔵遺跡と名付けた。調査は東京大学人類学室の磯崎正彦氏等によって進められその結果今より五千年前の縄文中期時代の遺跡であることが立証された。
昭和三十六年には県の文化財調査官斉藤忠氏が視察をされ、石組遺構と土器の関係から、県下はもちろんのこと、わが国東北部に於いても唯一、無二の遺跡であると折り紙が付けられ、学術上先住民の生活様式をしる上にも貴重な遺跡である。
 昭和五十一年 五泉市教育委員会 建之

 こういった説明でよく見かけることだが、句読点、漢字変換、主語と述語の関係でおかしいところがある。日本の将来のためにも、教育委員会自身が国語の勉強をした方が良いと思う。ともあれ、縄文中期の遺跡であることは判った。もっとも、今回の登山道の情報に出てくるまでは、この遺跡のことは聞いたことはなかった。どのような遺跡なのかよく分からないが、駐車場として利用できる草地の広場になっていた。
 大蔵遺跡は地図には記載されていないため、地図を見て、出発点の位置を確認した。林道を山に向かって進んでいくと、すぐに頭上を送電線が横切り、「新長線」巡視路の標識が現れた。右に曲がって杉林の中の山道を登っていくと、送電線の鉄塔下に出た。巡視路は、南の風越沢に向かって下っていくが、尾根通しに山道が続いていた。今回の登りに使う尾根は北の大蔵沢と南の風越沢に挟まれている。この尾根の正規な名称は知らないが、風越山に向かっての一本尾根であることから、風越尾根といってもよさそうである。
 尾根沿いには、しっかりした山道が続いていた。ただ、木立に囲まれて展望はなく、大蔵岳への登山道沿いに見られるような立派なブナ林は見あたらなかった。急緩を繰り返しながら単調な登りが続いた。展望も無いため、おしゃべりを続けながらの登山になった。540m付近で、右手の風越沢に向かう踏み跡が分かれていた。木立の間からかいま見る大蔵岳への尾根を見ては、登ってきた高さを推測した。尾根が広がって、二重尾根の間の窪地のヒドを辿るような所も現れてきた。とんとんが残雪期に歩いた時に、登山道を見失ったというのは、ここらあたりであったのだろうか。
 ひとつのチェックポイントである不動堂山へ続く稜線との分岐には、2時間かかって到着した。風越山の山頂もそう遠くはなさそうであった。不動堂山に向かっては、かぼそい踏み跡が下っていた。葉の落ちた時期なら、縦走はできそうであった。少し下りた所からは、木立の切れ間から、粟ヶ岳から川内山塊の眺めが広がっていた。
 不動堂山への分岐から先は、刈り払いが荒くなったものの、歩くのには支障はない状態であった。急坂をひと頑張りすると風越山の山頂に到着した。風越山の山頂は、右手が切り落ちた細い稜線状であった。灌木の丈も低く、周囲の展望が広がっていた。粟ヶ岳は、谷間に白い残雪の線を刻んでいた。川内山塊の眺めも広がっており、五剣谷山が特徴のある山頂を見せていた。めざす三五郎山の山頂はまだ遠く、大きくカーブしながら緑の稜線が続く先にあった。幸い、踏み跡は風越山の先に向かって続いていた。第一の目標の山頂に到着したことでひと安心し、風景を眺めながらひと休みした。ここまは藪尾根でであっただけに、この山頂では余計に開放感に浸ることができた。
 今回の山行では、藪漕ぎのエキスパートのtakuさんがわざわざ参加してくれていた。風越山までは、ヤブコギも無かったので、これでは不完全燃焼で悪いことをしたかなと思っていた。風越山を過ぎるとすぐに踏み跡は消えて、本格的なヤブコギの開始になった。灌木を鋸で引いた跡が続いており、コースの見当をつけるのは難しくはなかった。いよいよ出番ということで、takuさんに先頭をまかせることにした。
 兎平からの尾根が合わさる861mピーク手前の屈曲点付近では、背丈を超えるネマガリダケが現れて、前も見えない状態になった。声を掛けて、後続者が離れないように注意する必要があった。始めはヤブコギ入門といっていたのが、これは中級コースり、いや上級コースと格上げになっていった。臑に枝があたり、とんとんは何度も悲鳴を上げていた。枝を折るバキバキという音に、悲鳴のキャーキャー。大勢でのヤブコギは、賑やかで、悲壮感はない。1時間かけてようやく861m ピークの上に立つと、その先は、一旦下った後に、三五郎山への最後の登りが待ちかまえていた。ここまで来た以上は、引き返すよりは、三五郎山の頂上に抜けるしかない。今回は、戻ることは考えておらず、赤布はいっさい付けてこおなかった。このペースでいけば、大蔵岳でお昼を食べることができそうであった。ビールが待つ山頂をめざして頑張ることにした。
 861mピークからの下りは、はっきりした踏み跡が続いており、行程が捗った。わずかに登り返したところで、ヒドが前方を横切り、踏み跡も無くなっていた。尾根の続きは右上にあり、左には枝尾根が落ち込んできている地形のため、登山者ごとに歩くコースが違って、踏み跡が付かないものと思われる。少しでも藪の薄そうな所を選んで突入したが、これまえ以上の密生した藪が広がっていた。灌木を掻き分けながらのヤブコギが続き、臑には容赦なく枝があたって、枝が触れるだけでも痛みを感じるようになってきた。風呂に入った時の青あざの確認がお楽しみの状態になった。急斜面の登りのヤブコギは、体力的にも消耗した。背伸びして上をうかがうが、傾斜が少しづつ緩くなっていくものの、山頂はまだ先のようであった。ここまで頑張ってついてきたトントンも、慣れないヤブコギがきいて、疲れの色が見えてきた。
 尾根の張り出し部にのったところで、再び明瞭な踏み跡が現れた。枝を掻き分ける必要はあったものの、押し返されるようなことはなかった。ほっとひと息ついて歩いていくと、三五郎山の山頂に飛び出した。振り返ると、完全な藪が広がっているだけで、そこから登ってきたとは到底思えなかった。皆、安堵の気持ちで一杯になっていた。みると、ホッキョク熊は、ヒメタケノコをビニール袋一杯採っていた。確かに誰も入っていない藪で、足元にはいくらでも転がっていた。
 三五郎山の頂上は、藪に囲まれて展望は無い。引き返すことにはなるが、展望の良い大蔵岳の山頂で昼食をとろうということになった。登山道の歩きは、こんなにも楽かと、一同意見が一致した。12時になって登山者も下山を始めたのか、大蔵岳の山頂には数組が腰をおろしているだけであった。ザックを下ろし、まず目がいったのは、いましがた登ってきた弧状を描いて、長く伸びる風越尾根であった。その向こうに広がる粟ヶ岳や川内山塊の眺めを楽しんだ後に振り返れば、菅名山の向こうに鳴沢峰が三角形の形の良い姿を見せ、そこから左に尾根が伸び、大谷山と花見山の二つのピークが途中に盛り上がっていた。予定通りに、花見山経由で下山する時間の余裕はありそうであった。
 お待ちかねのビールで乾杯した。ヤブコギの後のビールの味は格別であった。takuさんが、二個のメロンを持ってきており、一人三分の一ずつの豪華なデザートを御馳走になった。
 食事もほぼ終えてのんびり話していると、団体が菅名岳方面から到着した。インターネットでの知り合いがおり、挨拶をすることになった。会津の登山教室の山行で、40名の団体とのことであった。菅名山塊も、山と渓谷社のアルペンガイドにも取り上げられるようになって、すっかりメジャーになっているようであった。
 予定の1時間の休憩を終え、記念写真を撮った後、縦走を続けることにした。三五郎山までの戻りは、さほどの苦労とも思わなかったが、その後の小さなアップダウンは、ビールの入った足には重く感じられた。菅名山塊は、昨年の4月の残雪縦走以来ということになる。残雪の稜線から眺めた川内山塊の印象が強いが、新緑も盛りとなって登山道からの眺めは無くなっていた。時間の関係か、すれ違う登山者もなく、静かな歩きを続けることができた。
 左に曲がるようにして緩やかに登っていくと菅名岳の山頂に到着した。この山頂にも、数名の登山者がいるだけであった。昼前にはビニールシートで埋め尽くされていたはずであるが、人気の山であっても、時差登山をすれば静かな山を楽しめるようである。先はまだ長いため、写真と撮り終えると、鳴沢峰への縦走を続けた。歩き易い登山道といっても、距離はあるため、時間は次第に過ぎていった。鳴沢峰も一家族が休んでいるだけであった。
 鳴沢峰から花見山へ下山するには、三本の登山道が途中で分かれるので、注意が必要である。まず、鳴沢峰から少し下ると、右手に花咲温泉への登山道が分かれた。しばらく下りを続けると、左に五葉尾根が分かれる。ここから足元に注意しながらの急な下りを続けると、前方に大谷山のピークが迫ってきた。長時間の歩行にもかかわらず、皆、順調な下りを続けていた。鞍部から登り返していくと、鹿返道の標識が現れ、馬下への登山道が右手に分かれた。尾根を直進する花見山への道は、まだ正式な道にはなっていないのか、道標のようなものは無かった。馬下への道と比べると、やや細々としているなという感じであったが、以前は藪で隠されていたのとは大違いであった。
 分岐からはすぐに大谷山の山頂を越して、鞍部への下りになった。最後の登りを頑張ると、前後に長い花見山の山頂に到着した。背の低くなった灌木帯の中を進んでいくと、三角点の置かれた小広場に到着し、ここからは周囲の展望が広がっていた。鳴沢峰の三角形の山頂がひと際印象的であった。右手には、菅名岳を経て大蔵岳に至る稜線が長く続いていた。風越山はその向こうになって見えないが、一同、歩いてきた稜線を振り返り、それぞれの思いにふけっていた。阿賀野川は蛇行しながら新潟平野に流れ出て、水田が西日に照らされて光っていた。目の前には五頭山塊が大きく広がっていた。縦走の最後をかざるに相応しい好展望台であった。花見山は、小山田ヒガン桜樹林公園からは、1時間30分ほどで登ることのできるピークである。少し時間がある時に登ってみるのも良いであろう。
 ゆっくりと風景を眺めていたい気分であったが、下山を急ぐ必要があった。5月末になって、日暮れが遅くなり、まだまだ空は明るかったが、すでに4時近くになっていた。花見山からの下りを続けていくと、右手に送電線の巡視路が分かれた。この道を登ってくる時には、この巡視路に迷い込まないように注意する必要がある。尾根沿いの道が花見山へのルートである。露岩の現れた小ピークを越すと、送電線の鉄塔が現れ、送電線沿いの下りが始まった。杉林を抜けると、小山田ヒガン桜樹林公園上部のベンチに到着し、最後の休憩となった。
 桜が列になって続く山道を下っていくと、朝方車を置いた駐車場に戻ることができた。かろうじて、5時前の、勤務時間内の下山になった。日暮れの遅さに助けられて無事に縦走を終えることができたが、コースタイムの予想が甘かったところがあり、出発をもう少し早くしたほうが良かったかもしれない。
 大蔵遺跡に戻って車の回収をし、村松のさくらんど温泉で入浴した。汗を流し、お喋りをしてから外に出ると、菅名山塊が、バラ色の雲に覆われていた。
 山の茜を顧みて 一つの山を終りけり
 何の俘のわが心 早も急かるる次の山
 深田久弥氏の四行詩である。深田氏の生誕地の加賀の大聖寺町にある文学碑には、この詩が刻まれている。どどいつの様という批判もあるようだが、まさにその通りの風景が広がっていた。長かった縦走を終え、また明日の山の準備をしなければならない。茜色に染まる菅名山塊を背に、家路を急いだ。

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