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西俣ノ峰、枯松峰、(頼母木山は断念)


【日時】 2002年1月2日(水)〜3日(木) 1泊2日
【メンバー】 「頼母木山」冬山合宿C隊 篠田猛、上村幹雄、大石イチ子、小川浅江、岡本明
A隊 武田猛志、木村操一、小島宏、五十嵐政晴 
B隊 池田憲一、渡辺茂、須貝利彦、樋口幸夫
1月1日日帰り 大木建
1月3日出迎え 笠原志郎、江田宋友、渡部忠三、渡部政子、諸橋良昌
【天候】 1月2日:雪(疑似晴天) 3日:猛吹雪

【山域】 飯豊連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
西俣ノ峰・にしまたのみね・1023.2m・三等三角点・新潟県、山形県
枯松峰・かれまつみね・1184m・なし・新潟県、山形県
【コース】 西俣ノ峰コース
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/飯豊山/長者原
【ガイド】 越後の山旅(富士波出版)

【時間記録】
1月2日 5:30 新潟発=(R.7、新発田、R.290、橋場、R.113 経由)=7:43 川入〜8:10 発―8:29 尾根取り付き〜8:38 発―9:51 尾根屈曲点〜13:58 西俣ノ峰―14:20 雨量計ピーク―15:40 枯松峰―15:55 大ドミ  (テント泊)
1月3日 10:54 大ドミ発―11:13 枯松峰―13:12 雨量計ピーク―13:23 西俣ノ峰―15:10 尾根屈曲点―16:13 尾根取り付き〜16:20 発―16:45 川入=(往路を戻る)=21:00 新潟着

 飯豊連峰の主稜線は、飯豊本山から御西岳の間で変則的に福島県が入り込んでいるが、新潟県と山形県の県境線を形作りながら、御西岳から北股岳、地神山、頼母木山と北に向かって続いている。しかしながら、頼母木山から先の県境線は、大石山、杁差岳と続く飯豊の主稜線とは離れて、玉川左岸に続く稜線に向きを変え、荒川に至っている。この荒川左岸に続く稜線にあるのが、西俣ノ峰や大樽山である。
 飯豊連峰の登山コースのひとつに、川入から西俣ノ峰に登り、枯松峰、三匹穴を経由して頼母木山に至るコースがある。2万5千分の1地図には、登山道を示す破線が記されているが、現在では登山道の整備は行われておらず、もっぱら冬季や残雪期に歩かれるコースになっている。
 今年の峡彩ランタン会の冬山合宿は、西俣ノ峰経由で頼母木山を目指すことになった。1月1日出発で2泊3日のA隊、同じく1月1日出発で1泊2日のB隊、さらに1月2日出発で1泊2日のC隊の、3組が編成されることになった。今回初めて、後発隊のC隊に参加させてもらうことにした。
 これまで、飯豊の冬山合宿に参加してこなかったのは、自分の山登りは、百名山めぐりに代表されるような、中高年の山歩きの範疇を出ておらず、自分自身の実力からみて、本格的な山岳会の活動には参加できないなと思っていたためである。簡単にいえば、冬山が怖かったためである。しかし、山登りの向上心は欠いていないつもりで、テント泊の単独縦走や、グループでの残雪期縦走、さらに雪山も低山の範囲ではあるが経験を積んできて、冬山合宿に参加しても、それ程の足手まといにはなるまいと思うようになってきた。今回、飯豊の冬山合宿に参加させてもらい、ひとつ上のレベルの山の勉強をさせてもらうことにした。
 1月1日は、午前中に晴れ間はのぞいたものの、風は強く、夕方から雪も降り出した。2日は、強い寒波が入り込み、山は大荒れになるとのことであった。天候の具合から見て、頼母木山の登頂は無理そうに思えた。ただ、登頂は無理という消極的態度では、頑張りが足りずに同行者に迷惑をかけることになるので、西俣ノ峰と枯松峰の登頂を目標にすることにした。これらのピークだって、私には、未だ登っていないピークである。
 1月2日、みぞれ混じりの雪の中、上村さんの家に集合し、篠田さん運転の小島さんの車で、長者原を目指した。R.131を離れて長者原が近づくにつれて、車道の両脇にはうず高い雪の壁が続くようになった。正月にもかかわらず、除雪車がフル活動をしていた。昨年の北股岳をめざした冬山合宿は、猛烈な悪天候のために、登頂は果たせなかったが、上村さんによれば、その時よりも積雪は多いという。
 国民宿舎梅花皮荘の奧の、車道終点の奧川入荘の駐車場に車を置かさせてもらった。御主人の横山さんに挨拶をすると、雪も多く、かなり大変だよということであった。民宿の泊まり客が、シベリアンハスキーの散歩に出てきて、我々の雪山への出発準備を、驚いた顔で見ていた。この犬は、食い意地が張っており、パッキングのために雪の上に置いてあった上村さん差し入れのカズノコの袋をもっていこうとしたので、小川さんが懸命に引っ張ってなんとか取り返した。
 雪の降りしきる中の出発になった。尾根の取り付きまでは、雪に埋もれた林道歩きがしばらく続いた。一面の雪原で、昨日歩いてできたはずのトレースは完全に消えていた。それでも、トレースの上にいると、わかんはそれほど沈まず、歩く助けにはなっていた。尾根取り付き手前の杉林で、最初の無線交信となった。小島、五十嵐両名はテントキーパーとなり、他の者は頼母木山へ向かったとのことであった。
 作業小屋のある杉林のすぐ先が、西俣ノ峰への尾根の取り付きであった。急な尾根の登りが始まった。尾根の周囲の木立は雪をかぶり、流れるガスとあいまって、白い世界が広がっていた。ラッセルを交代しながら、順調に高度を上げていった。標高200mの登りで、尾根上に出て方向が90度変わる。この90度屈曲点の小ピーク手前では、急斜面の上に以前の踏み跡に雪が乗ってわかんの爪がかかり難く、登るのに苦労した。
 尾根の上に出てひと息入れた。この後は、西俣ノ峰までの標高差500mの登りが待ちかまえている。ヒメコマツの並ぶ痩せ尾根は雪も少なく、比較的歩きやすかったが、尾根が広がってブナ林の中の登りになると、雪の量も増して、辛いラッセルが続くようになった。ガスが晴れて視界が広がるようになったが、国民宿舎の建物は、まだすぐそこに見えていた。倉手山は谷向こうに頭を高く突き上げ、切り立った斜面の下には、飯豊山荘への林道が細々と続いていた。
 10時過ぎ頃から青空が広がり始め、大境山や枯松山の山頂を眺めることができるようになった。沢筋が白い線を刻んだ山頂は、実際の標高以上の高山の風格を示していた。丸森尾根や梶川尾根、大ぐら尾根も目で追うことができるようになった。思わぬ青空に、ラッセルの元気を少し取り戻すことができた。ただ、この晴天は、疑似晴天というべきもので、天気が大崩するまでそれ程の時間もないように思えた。
 無線の交信で、AB隊が頼母木山の登頂に成功したことを知った。A隊は、予定では頼母木小屋に入る予定であったが、B隊とともに幕営地の大ガルに向かって下山中とのことであった。これで、会としては、飯豊の登頂に成功したということで、C隊は天気次第で行けるところまでということで、少し気が楽になった。
 西ノ俣峰への最後の登りにかかるころから、雪が柔らかく深くなり、数回踏みしめてからでないと、足が前に出ないようになった。ラッセルを交代しながらといっても、最後は皆疲れ果ててしまい、篠田さんに引っ張ってもらう形になってしまった。
 ようやく西ノ俣峰に登り着いた時は、昼をかなり過ぎており、この先の稜線歩きの時間が気になるようになっていた。天気も再び下り気味になり、なだらかに起伏していく稜線の先は、見えなくなっていた。この先は標高差は大きくないとはいえ、枯松峰を越えなければならなく、距離もかなりあった。ラッセルに手間取るようだと、大ガル到着が厳しいことになりそうであった。幸い、小型テントを始め、火器、スコップ、鉈など、行き着けなかった時の幕営の準備は用意してあった。
 下山途中のB隊とどこで出会うことができるのかが、心待ちになった。結局、B隊とは雨量計ピークで出会うことができた。登頂のお祝いやら新年の挨拶を兼ねての握手になった。この先は、4名が歩いたトレースができて、ラッセル交代なしでも歩ける状態になった。
 事前の地図読みでは、枯松峰に向かってはゆるい登りというイメージで、特に難所とも思っていなかった。だが、実際に到着してみると、一面の雪原が広がり、二重山稜のように尾根が複雑に合わさっていた。白一色の雪原の中にルート旗が、赤のラインを作って山頂に向かっていた。先行のAB隊のおかげで、コースを考える必要もなく歩くことができ、時間の短縮になった。帰路の際、このルート旗にあれほどお世話になるとは、この時は予想もしていなかった。大ドミに到着できるめどが付き、写真を撮りながら歩く余裕も生まれた。
 枯松峰から鞍部に下り、わずかに登り返したところに、テントが設営してあった。到着は、予定通りの4時であった。B隊のトレース、ルート工作、危険箇所のマーキングには、随分と助けられての到着であった。もっとも、西ノ俣峰の先までは、われわれC隊の力でラッセルして登ってきたので、その点は頑張ったといってよいであろう。
 A隊の皆に出迎えられて、暖かく火を起こしているテントに招き入れられた。外では、雪が再び降り始めていた。
 飲み会が始まり、そのまま夜遅くまで続いた。今回の話題の中心は、テントキーパーとなった小島氏の事情のことであった。暗くなる頃から猛吹雪になり、トイレのために外にでるのも、ひと勇気が必要な状態になった。明日は、天候の回復は見込めそうもなかった。
 大ガルに到着の時は、明日の天気が許せば、三匹穴まででも登ってみようと上村さんが言ってくれたが、この天気では、無事に下山するのが精一杯のところのようであった。B隊と出会った時、西ノ俣峰に登ったこともあり、天気の大崩が来ないうちに下山してしまいたいなと思ったものの、それではパーティーとして無責任だなと思って先に進む決心をしたという、心の動揺もあった。個人山行の時は、臆病に徹して逃げ足の速さを心掛けているのだが、今回は、勉強と思って悪天候に立ち向かうことになった。
 雷鳴はとどろき、風は吹き荒れ、雪はテントを打ち、恐ろしい夜になった。テントに乗った雪を時折はたいて落としていたが、寝ている間に、雪がテントの風下にたまって、片方の出口が埋まってしまった。
 夜が明けてから、トイレのついでにテントの回りの雪かきを行った。風当たりの強い所は雪が飛ばされていたものの、テントの風下には1m程の雪が溜まっていた。太陽が昇るにつれて、風は少しは弱くなったような気がしたものの、その日一日、時折雷鳴のとどろく吹雪が続いた。幸いというべきか、視界は数十メートルはあり、付近の地形を把握できる程にはあった。
 ゆっくりと朝食を採ったものの、天候の回復は得られず、撤収作業の開始になった。ゴミや装備のデポを行い、とりわけテントを雪の中から掘り起こしてたたむのに時間がかかった。スパッツがテントとフライの間に挟めたままに忘れられ、雪の下で凍りついてしまっており、外では凍ファスナーを下ろすことができなくなっていた。一旦テントの中に入って、もんで暖めてからようやくスパッツを付けることができた。吹雪の中であったが、目出し帽をかぶり、出発準備を整えると、歩き出す覚悟も出てきた。
 枯松峰への登り返しは、強風で雪が飛んで新たな積雪はそれ程でもなく、比較的スムーズに登ることができた。問題は、枯松峰からの下りの雪原であった。私は上村さんと最後尾についていたのだが、ラッセルトップの奮闘にもかかわらず、吹きだまり状の雪にラッセルは遅々として進まなかった。進むべき方向もルート旗が頼りで、それも吹雪の切れ間から次のルート旗を探す必要があった。雪原を過ぎて尾根が痩せてくると、積雪も少しは少なくなって、ラッセルもはかどるようになった。その代わりに、雪庇が発達して、通過する場所に注意する必要も出てきた。枯松峰からかなり下って屈曲点近くで、誰かが雪庇の縁に寄りすぎて、10m程横にヒビが走るという場面もあった。
 西俣ノ峰に到着し、後は稜線から離れるので風も止むかと期待しのだが、風向きの関係か、横殴りの風は続いた。急な下りになってラッセルは楽になるかと思ったが、下りの勢いで重量が余計に加わり、一歩ずつ足を引き抜かなければならない体力を消耗する歩きになった。
 屈曲点からの下りは、登りの時も雪の付き具合が悪かったが、雪が落ちてわかんの爪が掛かりにくくなっていた。急斜面でわかんを外し、バックステップで下ることになった。その後は、最後尾についていたこともあり、つぼ足のまま下りを続けた。尾根の末端近くで、杉林に人がいることに気が付いた。出迎え隊が待っているようであった。
 尾根を下りきり、テントの設営してある杉林に入ると、甘酒の入ったコップを渡され、美味しくいただいた。かなり早くから待っていたとのことであった。ひと息いれてからの、奧川入荘までの歩きは長く感じた。薄暗くなる頃、ようやく駐車場に到着して下山が完了した。
 奧川入荘の風呂で暖まり人心地を取り戻し、奥座敷に用意された料理で、山の打ち上げを行った。乾杯のビールは、山の緊張も消し去り、格別な味がした。
 新潟に戻ると、町中でも20センチ程の積雪があり、改めて今回の寒波の強さを思い知った。

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