0159

三国峠〜稲包山〜三坂峠
東谷山


【日時】 2001年11月23日(金)〜24日(土) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 23日 晴 24日 晴

【山域】 谷川連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 長倉山・ながくらま・1439m・なし・新潟県、群馬県
 キワノ平ノ頭・きわのだいらのかしら・1511m・なし・新潟県、群馬県
 稲包山・いなづつみさん・1597.7m・三等三角点・群馬県
 西稲包山・にしいなづつみさん・1570m・なし・新潟県、群馬県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/四万/三国峠、四万
【ガイド】 ランタン通信229号、中村謙著「ふるさとの山」(富士波出版社)
【温泉】 宿場の湯 600円

【山域】 谷川連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 東谷山・ひがしやさん・1553.8m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/越後湯沢/土樽
【ガイド】 皆川さんの個人情報
【温泉】 二居宿場の湯 600円

【時間記録】
11月23日(金) 5:20 新潟発=(関越自動車道、湯沢IC、R..17 経由)=7:45 三国トンネル入口〜7:58 発―8:24 三国峠〜8:28 発―8:55 長倉山―9:03 長倉山下―9:57 キワノ平ノ頭〜10:02 発―10:23 コベックラ沢分岐―11:10 新道分岐―11:17 稲包山〜11:48 発―11:53 新道分岐―12:05 小稲包―12:21 西稲包山―12:36 三坂山〜12:41 発―12:48 県境線より下降開始―13:07 丸木橋―13:25 黄蓮沢―13:37 三国スキー場登山口―14:30 苗場スキー場入口―15:21 三国トンネル入口=(二居宿場の湯、R..17 経由)=17:00 湯沢 (車中泊)
11月24日(土) 6:00 湯沢発=(R..17 経由)=6:45 二居〜7:00 発―7:26 二居峠〜7:31 発―7:35 南新潟幹線No.153入口―7:51 鉄塔(No.153)〜8:00 発―10:00 東谷山〜10:15 発―11:35 鉄塔(No.153)〜11:47 発―11:58 南新潟幹線No.153入口―12:03 二居峠―12:24 二居=(二居宿場の湯、R..17、湯沢IC、関越自動車道 経由)=16:50 新潟着

 三国峠は、越後と上州を結ぶ三国街道と、谷川連峰縦走路が合わさる十字路になっている。もっとも、これまでは、三国峠から谷川岳に至る東に向かう稜線のみに道が付けられていたが、新しく西に向かう稜線沿いにも稲包山を経て三坂峠までの道が整備された。
 三坂峠は、越後と上州を結ぶ山越え道として、三国峠よりも古くから利用されてきたという。藪に埋もれて久しい峠であるが、遠く白毛門から始まる谷川連峰縦走路の西の終点として、登山家の注目をあびることになるであろうか。

 平標山から北に向かって、二居俣ノ頭、日白山、タカマタギ、白板山というピークを連ねた稜線が続いている。東谷山は、日白山の西に派生した稜線にあるピークであり、夏道はないため、主に積雪期に登られている山である。三国街道の二居峠はこの山の南西の山裾を越している。

 一週間前にインターネットの仲間と三国山と法師温泉をセットにした山行を行って楽しんだ。その際、三国峠に、稲包山・三国スキー場という標識が立てられているのを見つけた。三国スキー場から旧三坂峠を経て稲包山までの道が、慶応大学VWの手によって開かれたということを、平成12年12月11日に歩いた小島氏(ランタン通信228号)の報告によって知っていたが、三国峠まで道が延びているとは思ってもいなかった。縦走のための長丁場歩きにとっては、雪の訪れが気になる季節になっているが、今週は暖かい日が続き、雪の心配は無さそうであった。途中のピークまででも良いかなと思って、おそらく今シーズン最後のチャンスにかけることにした。
 三連休ということもあり、また谷川連峰方面までの遠出でもあり、日帰りはもったいないということで、翌日は、棒立山から平標山への縦走の際に、日白山から見て気になっていた東谷山に登る計画を立てた。
 三国トンネル手前の駐車場に到着して山を見上げると、周辺の山の雪は無くなっており、冬枯れの木立が広がっていた。先週は、登山道をうっすらと霜が覆い、笹の葉の上には雪が積もっていたのとは大違いであった。そうはいっても高い所の雪の状態は判らないため、靴は長靴とし、念のためにわかんを持っていくことにした。連休初日とあって、登山口には関東ナンバーの車が四台停まっていた。
 一人での歩きは、おしゃべりをする相手もなく、自然に足が速くなる。つづら折りの道に体が汗ばんできたところで、30分もかからずに三国峠に到着した。雲一つ無い青空が広がり、鳥居越しに見る三国山の山腹は、茶色の枯れ草色に被われていた。上州方面の展望が広がっていたが、逆光のために、山々を見分けるにはもう少し日が昇るのを待つ必要があった。先週は展望は無かったかわりに、雪と霧氷を楽しむことができた。先週は、スノーハイクを楽しむことができたので、条件としては恵まれていたということになろか。
 稲包山・三国スキー場という標識が立つ西に向かう縦走路は、新しく切り開かれたというにしては、以前からあるようなしっかりした道である。入口に湯宿線の送電線巡視路の標識もあり、送電線巡視路を登山道として利用したもののようである。三国山に向かって登っていく登山者を見送ってから、三坂峠への縦走路に足を踏み入れた。
 峠からわずか先で送電線の鉄塔下を通過すると、小ピークへの登りが始まった。ひと登りして振り返ると、三国山の山頂が姿を現し、その左には平標山と仙ノ倉山が雪に白く染まった姿を見せていた。来る途中で見た元橋の駐車場には何台もの車が停まっており、大勢の登山者で平標山は賑わいそうであった。小ピークから緩やかな稜線を辿ると、長倉山に到着した。三国峠から稲包山の間には、そう目立ったピークは無いが、この長倉山とキワノ平ノ頭が、名前の付いたピークとなる。現在地を見失わないように、地図を良く見ながら歩いてきたのだが、山頂には新しい標識が立てられて、名前が書かれていた。稲包山も目で捕らえることができるようになったが、まだ遠くにあった。
 長倉山からは、鉄塔の立つ鞍部に向かっての急な下りになった。鉄塔の脇には、長倉山下と書かれた標識が立てられていた。巡視路が分かれていたが、侵入禁止と書かれていた。この送電線は、南新潟幹線と呼ばれ、平標山への松出山コース途中にある大鉄塔とも結ばれているも。ここから送電線の巡視路を下っていけば、三国峠への登山道にぶつかるはずなので、もしもこの縦走路を引き返してくるならば、近道として使えそうであった。
 長倉山下からは、新しい刈り払い道になった。足元で笹の切り跡がボキボキと鳴り、置いた足が横に流れてバランスを崩しやすくなり、意外に疲れる歩きになった。つい最近刈り払いが行われたような感じであった。再び登りに汗を流すことになった。三国峠から稲包山の間は、それほどの高低差の無い縦走路で、歩くのは楽勝かと思ったが、その考えは甘かったようである。1447mの小ピークに上がると、その先はなだらかな稜線歩きになった。右手には、筍山とその奧の苗場山の眺めが広がっていた。筍山山腹に広がる苗場スキー場は、枯れ草色に染まる山肌の中に白いベルト状のゲレンデを浮かび上がらせていた。切れ切れに音楽が聞こえ、スキーゲレンデの営業が始まっているようであった。後で知ったのであるが、この日がスキー場オープンの日であった。
 ひと登りすると、灌木で囲まれたキワノ平ノ頭に到着した。縦走路の先をうかがうと、ようやく稲包山も近づいてきた。時間が気に掛かるところであるが、三坂峠に抜けて、後の車道歩きのことは考えないということなら、なんとかなりそうであった。
 キワノ平ノ頭を下って、鞍部の送電線鉄塔に近づいていくと、再びしっかりした道に変わった。鞍部には二本の送電線が通過しているが、ここの標識にはコベックラ沢と書かれていた。巡視路が左右に分かれており、侵入禁止と書かれていたが、コベックラ沢側の巡視路からの踏み跡があるのに気がついた。コベックラ沢沿いの巡視路を使えば、新潟県側からの稲包山の周遊コースが取れるようであった。
 巡視路から分かれて稲包山への登りにかかると、再び新しく切り開かれたような道に変わった。雪も多くなり、吹きだまり状に20セントほどの深さの所も現れた。稲包山へは、辛い登りになった。稲包山の北の肩部に新道分岐の標識があった。稲包山の山頂は、県境線を南に少し外れていて、群馬県内にある。縦走路から離れてひと登りすると、稲包山の山頂に到着した。
 稲包山は、1994年11月5日以来二度目の登頂になった。先回は、赤沢から赤沢峠を経て稲包山に登り、下山は送電線の巡視路を使って法師林道秋小屋澤橋に下り赤沢に戻るという、周遊コースとして歩いた。今回は、新潟県側からの訪問ということになる。
 稲包山の山頂は、三角点と稲包神社奧社の祠と、登山記念碑が置かれており、それであらかた満杯の狭さである。単独行が、一人休んでいた。うっすらと雪に覆われた斜面の縁にビニールシートを敷いて、歩いてきた縦走路を眺めながら腰を下ろした。体が冷えない内にと、まずはビールを開けた。
 周囲は360度の展望が広がっていた。谷川連峰は、三国山から平標山にかけての稜線と、平標山から谷川岳に至る稜線が二重に重なり、背後の仙ノ倉山や万太郎山や谷川岳が白い山頂をのぞかせていた。西に向かう稜線にも興味が引かれた。稜線の先には、上ノ倉山、忠治郎山、上ノ間山、白砂山といった2000m級の山が連なっている。そこまでの道は無いので、残雪期に歩くしかないが、三国スキー場から三坂峠までの道が開かれたとなると、それをアプローチに使えばと、思いにふけった。榛名山、赤城山、上州武尊山、日光連山も青空のもとに並んで姿をみせていた。青空が広がり、11月末とは思えない陽気であった。
 先着の単独行は、四万から登ってきたとのことであったが、夫婦連れが到着し、話をすると赤沢から登ってきたとのことであった。ムタコ沢への下り方を聞かれたので、山頂下の大鉄塔から巡視路を伝って一気に下ると三叉路に出るので、これを右折して低い方へと進んでいくと、最後に林道に飛び出すと答えた。このコースは、迷う所もないと思うが、正規のコースではないので登山標識は整備されておらず、地図にも道は記載されていない。歩くのには、ある程度山歩きに慣れた人向けということになろうか。
 短い昼食休憩の後、三坂峠への道に進むことにした。新道分岐に戻り、西に向かう稜線に進んだ。雪の上には足跡が続いていた。山頂にいた単独行の話では、4名グループが下っていったとのことで、コベックラ沢から登ってきたグループが先行しているようであった。分岐の先の1570mピークは、小さいながらきれいなピラミッド型をしており、山頂近くで息がきれた。ビールの酔いが回っているようであった。1570mピークには小稲包の標識が立てられていた。振り返ると稲包山がきれいな三角形の山頂を見せていた。続くピークは山腹の南に進んでから右手に曲がって急坂を登ったが、これが1550mピークの西稲包山の山頂であった。
 西稲包山を下っていくと、今回の縦走での最終目的地といえる三坂峠に到着した。三坂峠という標識がなければそれと気づかずに通り過ぎてしまうであろう、特徴のない場所であった。「ここはへい(信州)はちゃ(上州)とそんま(越後)の国ざかい」という方言を盛り込んだ川柳を、この峠に立った小林一茶が残したという。中村謙著「ふるさとの山」によれば、「三坂峠は、現在の三国峠が開削されるまでは、上州と越後との物資交換に重要な働きをはたしていた峠で、そのむかし上杉謙信が出る以前は、信濃の勢力が強大で、この辺りまで上信越の国境だと考えられていた時代があった。」という。昔の道は、上州側は四万に向かって下っていたというが、その方面は藪に被われて、道の痕跡も見あたらなかった。三国峠から三坂峠の間には、4本の送電線が国境を越しており、姿を変えて、この一帯は物資交換の大動脈として働いているようである。三坂峠へは1時間45分、三国スキー場へは1時間30分とあり、時間的には問題なく山を下れそうであった。
 1449m点に登り返した後、道は県境線から緩やかにそれていき、笹原の中の下りが始まった。雪に笹が倒れ込んで、刈り払い跡が分かり難くなっていたが、先行者の足跡を辿って、問題なく進むことができた。直に痩せ尾根の下りになり、はっきりした道になった。尾根を左に向かって外して急坂を下ると、涸れた沢に下り立った。この最後の部分は、昔の街道道を再現してはいないような感じもするが、登山道としては、尾根の上を目指すもので、登山コースとしては辿りやすい。
 涸沢を二本渡って下っていくと、水の流れるガランノ沢の 徒渉点に出た。ここには丸木橋という標柱が立てられていた。丸太橋が渡されていたが、雪が積もっていかにも危なそうであった。長靴も履いていたこともあって、そのまま流れをつっきった。 徒渉点から一段高い所に登り返すと、丸木橋入口という標柱が置かれていた。その後は湯ノ沢左岸沿いの歩きが続いた。途中から幅広の道になったが、道はぐちゃぐちゃで登山靴では泥を避けるのに苦労しそうであった。
 三国スキー場に到着してみると、三坂峠経由稲包山登山道入口、稲包山4時間と書かれた標柱が立てられていた。閑散としたスキー場では、リフトの点検の作業員が働いていた。
 三国山から三坂峠までという、二つの古い峠を結んだ縦走は終わったが、車の回収のために出発点へ戻る必要があった。昔の旅人も歩いた道なので、歩けないはずはないということで頑張ることにした。幸い、道は緩い下りが続き、体力の消耗は少なかった。途中でコベックラ沢の巡視路入口も確認でき、歩いたことは無駄にはならなかった。浅貝の宿に到着、というよりは苗場スキー場入口といわないと判らないであろうが、ここで車道歩きもようやく半ばになった。昔の宿場の面影は全くない町中を通り過ぎて、国道歩きに最後の力を振り絞り、三国トンネル入口に戻った。1時間45分の車道歩きであったので、我慢の範囲であろう。
 二居で翌日歩く予定の二居峠への登り口を確認した後、宿場の湯に入った。一日の歩きで体が冷えて、温泉の暖かさが心地よかった。一旦湯沢に戻り、町の食堂で夕食をとり、酒を買い込んだ後、魚野川右岸の公園の駐車場で夜をあかすことにした。
 夜明けが遅く、目を覚ましたもののぐずぐずしていて、出発は遅くなった。この季節は、日の出は遅いし、午後はすぐに日が陰って薄暗くなるわで、長時間の山歩きをするのは難しい。
 再び戻った二居スキー場のゲレンデ脇の駐車場に車を停めて歩き出した。二居峠までは中部北陸自然歩道E-7越後三国街道石畳の道として整備されている。つづら折りの山道が続いた。スキーゲレンデの上部を過ぎると、周囲は杉林から雑木林に代わった。道の上には、厚く落ち葉が積もり、踏みしめる足元でかさこそと鳴る音が、余計に静けさを際だたせていた。右手を沿うように、集落に電気を送っているような細い送電線が通過しており、冬期に登るなら良い目印になりそうであった。尾根上に登り着くと、そこが二居峠であった。林道が横切っており、右手にはあずまやが設けてあった。
 二居峠の説明板には、次のように書かれていた。
「中の峠から少し下り、また急な登りになるので二重峠とも呼ばれ、この辺り一番の難所であった。旅人が眼下に見える二居宿に呼びかけ、それから下っていくまでにあずきが煮えるほどの時間がかかったので、あずき峠とも呼ばれていた。
 峠の上には薬師如来の石仏が安置されている。ある年、夜中に峠を越えようとした旅人が盗賊に襲われた時、薬師様に助けを求めて一心に拝んだら、雲間から月が急に顔を出してあたりを明るく照らしたので、盗賊が逃げ去り旅人は救われたという。それ以来、二居峠の薬師様は三国峠を通る旅人の守り仏として敬われていた。
 二居峠の上には、茶屋はなかったが、明治初年に三国街道が国道に編入されたとき、冬でも安全に通行できるように峠の近くの光り石という場所に助け小屋(冬の間は番人を置く)が設けられた。」
 林道を右に曲がると、貝掛温泉に通じる旧街道は、左に向かって山を下っていった。林道をそのまま進んでいくと、送電線の鉄塔下に到着し、南新潟幹線No.153と書かれた送電線の巡視路入口の標識が置かれていた。
 東谷山は、日白山への積雪期の入山のために登られることが多いようである。雪の無い季節に登った記録を、皆川さんからもらい、興味を持っていた。この送電線の巡視路を使って鉄塔まで進み、その先は、測量隊の切り跡やテープが残されていたという。ただ、その記録は1997年のこととあっては、今もその踏み跡があるかどうかは不明であった。
 硬質ゴムで階段状に整備された幅広の巡視路は、急な登りで尾根の上に出ると、後は緩やかに鉄塔まで導いてくれた。この送電線は、昨日の三国峠から三坂峠までの縦走途中で、長倉山下で出会ったものと同じものである。送電線の下でひと休みした後、切り跡があるかどうか探した。皆川さんの報告では、南東側に刈り払いの跡があったということであった。取り付き部は、枯れススキの原になっていたが、灌木を切り倒したことは間違いはなさそうなので、ここから歩き出すことにした。尾根の頂部をはずさないように登っていくと、古い切り跡も見つかるようになった。斜面の途中にある杉の木を、とりあえずの目標にして登り続けた。藪漕ぎには違いないが、この辺りの藪は薄く進むのはそう難しくはなかった。灌木の中に笹原が帯状に続くような所もあり、昔の刈り払い跡のように思えた。皆川さんの報告では、ピンクの蛍光テープが、15〜30mおきに取り付けられていたというが、色の抜けたテープが時折木に結ばれているのを見つけることができるのみであった。帰路確保のためには自分でテープを付けながら歩く必要があった。後ろを振り返ると、鉄塔が良い目印となった。やがて下に遠ざかっていった時には、谷向こうの山腹に掛かる二居ダムへの導水管が良い目印になった。
 1300m付近までは、刈り払いの痕跡が切れ切れに続いていたが、その先は辿れなくなった。最後のあたりでは、尾根の頂部は笹藪が濃いため、北側の林の中の一段下がった所に切り跡が続いていた。尾根が広がってきたため、林の中に切り跡が逃げていったのかもしれない。切り跡が無くなって、ここまでは気楽な藪漕ぎであったものが、本格的な藪漕ぎになった。幸い1400m付近から雪が現れて、足跡を帰りの道しるべとして使えるので少し気が楽になった。雪の上には、動物の足跡が残されていたが、クマの足跡にも出くわした。皆川さんは、この山に登る時に、かなりクマを気にしていたようであるが、やはり生息しているようであった。
 1500m付近になって傾斜が緩くなると、笹藪も密林状に身の丈を越すようになり、黒ヅルに絡まって、前に進めないような所も現れた。地形も広がってきて、慎重にコース取りを行う必要が出てきた。藪を逃げていては、コースからそれて帰りに辿れなくなるため、真っ直ぐに藪に突入するしかなかった。山頂が近づいて、北に少し向きを変えてからの標高差50mほどの登りが、長く感じられた。
 ピークの上に到着して、どこが山頂かと思いながら進んでいくと、5m位の刈り払われた広場が現れた。東谷山は、東にも小ピークがあるので、三角点部を通り越していないかと少し不安があった。細い白樺が立ち、ほつれかけたビニールテープが残されていた。三角点を埋めるなら、この木を中心にするはずと思って、10センチ程の雪をかき分けていくと、三角点が姿を現した。山頂を確認できて、落ち着いて休むことができた。
 目の前には、平標山から仙ノ倉山が白い姿を見せていた。日白山が近くにあり、二居俣ノ頭を経て平標山へと長い稜線が続いていた。2000年4月1日〜2日に棒立山から平標山への縦走を行い、日白山の山頂から東谷山を興味を持って眺めたことを思い出した。東谷山から日白山へというのも、残雪期の歩きとしては面白そうであった。藪の濃い今の季節では、とてもそこまで足を延ばすことはできないが。苗場山から佐武流山へと長々と続く稜線も眺めることができた。
 帰りの問題があるので、休みもそこそこにして下りを開始した。雪の上の足跡と赤布に助けられて順調な下りを続けた。もっとも、地形を外さないようにコース取りをしているうちに、登りのコースとは違った所を通過しているような所もあったが、細かいことは気にせずに歩くことにした。数メートル外しただけで、赤布を付けていたところで見失う笹藪の中では、完全なトレースは無理である。時折足を止めて、高度と地形を比べた。最後に痩せ尾根に乗って、送電線の鉄塔が眼下に迫ってきた時は、ほっとして緊張感が緩んできた。
 鉄塔の下に戻り、遅い昼食をとった。落ち葉を蹴散らしながら巡視路を下ると、入口には送電線保守の作業員が車で入ってきており、興味深そうな目でこちらを見つめていた。
 峠から下って到着した二居の宿は、昔の峠越えの旅人と同じように、藪漕ぎ山行で疲れた登山者を暖かく迎えるかのようであった。再び宿場の湯に入り、山は終わりにした。


山行目次に戻る
ホームページに戻る