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飯豊本山、種蒔山、大日岳、西大日岳


【日時】 7月20日(金)〜22日(日) 2泊3日
【メンバー】 トントン、エビ太、北極クマ、黒ヒョウ、ララ、岡本(6名)、ウスユキ(切合合流)
【天候】 7月20日〜22日 晴

【山域】 飯豊連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 疣岩山・いぼいわやま・1653.5m・三等三角点・新潟、福島県
 三国岳・みくにだけ・1644m・なし・新潟、福島県
 種蒔山・たねまきやま・1791.0m・三等三角点・新潟県
 草履塚・ぞうりつか・1908m・なし・福島県
 飯豊本山・いいでほんざん・2105.1m・一等三角点本点・福島県
 駒形山・こまがたやま・2038m・なし・福島県
 御西岳・おにしだけ・2012.5m・三等三角点・福島県、山形県
 大日岳・だいにちだけ・2128m・なし・新潟県
 西大日岳・にしだいにちだけ・2091.9m・二等三角点・新潟県
 卷岩山・まきいわやま・1575m・なし・新潟、福島県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/大日岳、飯豊山/大日岳、飯豊山
【ガイド】 岳人カラーガイド「飯豊連峰、朝日連峰」(東京新聞社)、山と高原地図「飯豊山」(昭文社)
【温泉】 津川温泉 清川高原保養センター 500円

【ガイド】
7月20日(金) 0:00 新潟発=(R.49、徳沢、R.459、奥川、弥平四郎 経由)=3:30 祓川〜5:02 発―5:25 祓川山荘〜5:32 発―6:54 水場〜7:05 発―7:23 松平峠〜7:51 発―8:25 水場入口―8:35 上ノ越分岐〜8:47 発―9:07 疣岩山〜10:38 三国岳〜10:50 発―11:46 七森―12:16 種蒔山〜12:27 発―12:55 切合 (テント泊)
7月21日(土) 5:15 切合発―5:47 草履塚―7:07 本山小屋〜7:10 発―7:25 飯豊本山〜7:35 発―7:50 駒形山―8:36 御西小屋〜8:50 発―9:58 大日岳―10:20 西大日岳〜10:25 発―10:55 大日岳〜11:30 発―13:03 御西小屋〜13:15 発―14:10 駒形山―14:33 飯豊本山〜15:18 発―15:30 本山小屋―16:40 草履塚―17:10 切合 (テント泊)
7月22日(日) 6:00 切合発―6:23 種蒔山―6:46 七森―7:27 三国岳〜7:50 発―8:29 疣岩山〜8:42 発―8:52 上ノ越分岐―9:08 卷岩山―9:57 上ノ越〜10:04 発―11:24 祓川=(往路を戻る)=16:50 新潟着

 飯豊本山は、古くからの信仰登山の山で、飯豊連峰を代表するピークである。福島県側からは、川入からのコースが多く利用されているが、弥平四郎から卷岩山を経て三国岳に至るコースも開かれている。大日岳は、飯豊連峰の最高峰である。大日岳から西大日岳へ登山道は、登山地図には赤の破線で記されていたのが、今年の登山地図からは消されてしまって、廃道になりかかっている。
 飯豊には、機会あるたびに登りたいと思っている。海の日の休日には、梅雨も明けて、高山植物の花盛りを期待できるので、今年も行こうと思っていた。飯豊本山にはすでに4回登っており、一人で行っても寂しいので、飯豊に登っていないとんとんさんを誘うことにした。今年は三連休になるので、余裕のある日程が取れるのも都合が良かった。飯豊の避難小屋は充実しているといっても、この連休ばかりは特別で大混雑になるのは必至のため、まずは4人用のテントを買った。7月始めに、飯豊の前哨戦として杁差岳に避難小屋泊まりで登り、重荷を経験してもらい、まずは飯豊に足を踏み入れてもらった。結局、今回の参加メンバーは6名となり、4人用と2人用のテントを担ぎ上げる必要が出てきた。幸い、男性陣は全員が70L級の大型ザックを揃えたので、荷物の分担の心配はいらなくなった。今回も共同食料を担当したが、生野菜や果物を持っていくことにして、減量とは縁遠い山行になった。
 一日目の切合までの行程はそう長くなく、新潟を早朝に出発しても間に合う勘定であったが、朝の涼しい内に急登を終えないと、苦労するのは目に見えていた。道の駅「阿賀の里」に2時30分に集合として、祓川の登山口を5時30分に歩き出す計画を立てた。仕事を終えて、出発の準備を整えてからひと眠りし、0時に家を出た。1時過ぎに「阿賀の里」に到着し、もう一眠りを決め込むと、ほどなくとんとんさん一行が到着して起こされた。皆、初めての山とあって気合いが入っているのか、早めに到着したようである。
 さっそく、弥平四郎に向かって出発した。R49から徳沢に向かって曲がり、奥川の集落を越すと、その先は人家も少ない心細い道が続く。弥平四郎の集落のはずれから未舗装の林道が始まるが、路面の状態は、あまり良くなかった。流水に削られた溝に落ち込まないよう、また路肩にも注意が必要であった。夜間もこの林道を走ったことがあるから良いものの、初めてだと躊躇するような道であった。一度は、道路に大きな石が転がっており、車を下りて石をどける必要があった。
 長く感じられる林道の走行を終えて祓川の駐車場に到着すると、夜間にもかかわらず、六分程埋まった状態であった。これも海の日がらみの三連休のおかげというべきか。
 会津のららが5時に到着予定ということで、車の中でひと眠りした。4時過ぎに、中型バスが到着し、中高年グループが下りてきた。暗い中、よくこのような大きな車が入ってきたと感心したが、脱輪でもされたら、皆の車も閉じこめられてしまうわけで、無謀運転としか考えられない。山梨ナンバーで、道路状況を知らずに入って、方向転換もままならず、終点までやってきたのではないだろうか。
 皆を起こすと、丁度ららさんも到着していた。荷物を一同に分担し、出発の準備をした。団体や個人グループが出発していくのを見送った後、ゆっくりと出発した。テントや食料で荷物は重く、今日はゆっくりと歩く必要があった。
 祓川からのコースは、沢に向かっての下降から始まる。重荷に体が慣れていないので、足下も定まらない。沢に近づくと、だいぶ前に出発した団体が前方にいた。見ると、沢にかかった橋が流されており、 徒渉のために手間取っていたようであった。水の深さはそれほどでなかったので、靴を脱げば、問題なく渡れるのだが、それも面倒であった。橋の少し上流に回り込むと、幅の狭いところがあり、水面下の石を踏み台にして、二歩で渡れそうであった。ストックでバランスを確保して足を踏み出すと、靴に浸水することもなく対岸に渡ることができた。足場を確かめるのに手間取る者もいてちょっと手間取ったが、無事に皆渡ることができた。
 少し急な尾根を登ると、ブナ林の中の平坦な道に変わり、祓川山荘に到着した。水も引いてあり、ここでまずは一服した。小屋の中に登山届けがあったので、用意してきた登山計画書を綴りに挟み込んだ。この先は、飯豊の登山道としては珍しく緩やかな登りが続いた。一行は元気良く、歩きながらのお喋りも続いた。途中で、伸びた列になって休んでいる団体を追い抜いた。気温は高いため、途中の水場で一服と思いながら歩いたが、なかなか到着しなかった。山腹を巻いていく緩やかな道といっても、尾根の乗り越しや崩壊地の高巻きで、短いが急な上りも現れ、汗がふきでてきた。谷向こうには、鏡山から疣岩山に至る稜線が長く続くのが見えた。松平峠が近づいてきた所で、水場に到着した。
 苔むした岩場を流れ落ちる水を飲んで元気を取り戻したあとは、僅かな歩きで松平峠に到着した。疣岩山への急登に備えてひと休みした。ここからは弥平四郎コースで一番の急登であるが、そう長くはない。ザレ場もあって足下に注意の必要な箇所もあるが、登りでは問題は無く、快調に高度を上げていった。先回の足の松尾根に比べれば、大した登りではないというのが皆の感想のようなので、先回の山行が役にたっているようである。振り返ると、雲海の上に会津磐梯山が姿を見せていた。その左にうっすらと見えるのは吾妻連峰のようであった。先回もこの登りの途中で見たセンジュガンピの白い花は、今回も咲いていた。
 苦しい登りの元気付けに、分岐に出たらオレンジを食べようと声をかけた。上ノ越との分岐に辿り着いたところで、オレンジを半分ずつ食べた。山で食べる果物は、持ってくるのは重くて大変だが、美味しくて元気がでる。重いオレンジをここまで持ち上げてくれたえび太に感謝である。疣岩山の山頂へのトラバースの登りになると、木立の間から、飯豊本山から大日岳の眺めが見え隠れし始めた。皆の飯豊の期待が高まった。疣岩山に登ると、次の目標地点の三国岳が目に入ってきた。疣岩山からは、一旦大きく下り、小さなピークを乗り越すものの、なだらかな稜線伝いの道が続く。右の谷間を覗くと、松平峠から登ってきた尾根を上から見下ろすことができた。三国岳の山頂は川入からの登山者で混み合っていると思い、その手前の草原で腰をおろして昼食にした。ニッコウキスゲがちらほら咲いているものの、この付近の花は思ったよりも少なかったが、草原の向こうには、沢筋を白く染めた大日岳の姿をよく眺めることができた。
 休憩のあとはひと登りで 三国岳に到着した。川入方面から大勢の登山者が登ってきていた。ここからは、小さなピークが連続する体力を消耗する区間になる。登山道の足元が悪いところもあって、ゆっくりとお花見物とはいかなかったが、ミヤマクルマバナやタテヤマウツボグサ、クルマユリ、ニッコウキスゲ、ミヤマキンポウゲ、モミジカラマツが登山道に沿って咲き乱れていた。三国岳から少し進んだ所の小ピークには、鎖が掛けられた急斜面がある。数日前、単独行の中年女性が転落死したというニュースが報道されたことから、鎖場が苦手のトントンは、ここの通過を気にしていた。足場を指示しながら登り、無事に鎖場を通過した。かなり緊張していたようである。種蒔山への登りも、皆、体力はそれ程消耗していないため、順調に登ることができた。
 種蒔まで到着すれば、あとは草原の中をのんびり歩くだけで、切合に到着したようなものである。登山道脇で皆が休む間、種蒔山の三角点を探すことにした。登山道は、種蒔山の東を巻いているため、厳密には、種蒔山には登ったことにはならない。昨年も種蒔山の三角点を探そうとしたが、藪に朝露がびっしりとついていたため、諦めたという経験もある。切合方面からだと、登山道脇の草原からそれ程の標高差もなく、三角点に達することができそうであったが、位置が判りにくかった。種蒔の看板から少し切合方面に進んだ所に、草地が高みに向かって続いている所があり、その上が最高点のように思えた。草原に足を踏み入れるのは気がとがめるので、その左脇の笹原を登った。幸い、膝上の深さで、楽に登ることができた。稜線上に出ると、灌木が密生しており、三角点を見つけるのは無理かなとも思ったが、とりあえず切合方面に藪を掻き分けて進んだ。灌木の茂みの中に、木の刈り払われた小広場があり、笹に埋もれた三角点を見つけることができた。仲間に声を掛けて、種蒔山登頂と叫んだが、続いて登ってくる物好きはいなかった。
 飯豊本山から御西岳までの間は、登山道に沿って、福島県の境界線が山形県と新潟県の県境線に割って入るという、変則的な境界線が引かれている。この種蒔山は、登山道が東にそれているため、新潟県の山ということになるが、僅かな藪漕ぎにもかかわらず、登ったという話は聞いたことがない。種蒔山の東斜面には残雪の消えた跡に青々とした草原が広がっている。飯豊山が米の豊作を祈願した山であることを考えると、この草原を苗田と見立てて、種まきの名前を付けたのが山名の由来のように思われるのだがどうなのだろうか。
 登山道に戻って再び歩き出すと、草履塚と飯豊本山も前方に姿を現した。登山道脇まで雪渓が延びていたので、ビールを冷やす雪をとっていくことにした。
 雨水で深く削り取られた登山道を下っていくと、切合に到着した。手前の砂礫地にも、すでにテントが張られており、場所の確保が心配になり、テント場に急いだ。幸い、テント場にはまだ余裕はあり、テント二張りの場所を確保できた。テント設営の費用は、一人500円で、それなりの金額であった。問題は、領収書もテントに付ける支払い済みのマークも渡さないことで、料金をごまかしたものも大勢いたのではないだろうか。
 テントを設営後、時間も早いことから、おやつにそうめんを食べてのんびりすることにした。そうめんは、水の豊富な夏山ならではのメニューである。もっとも、6人前の麺とつゆで、1kg程の重さになったので、荷揚要員の余裕も必要である。大コッフェルで三回ゆでて、冷たいビールとそうめんで満腹になった。時間も早いので、続いてお昼寝タイムになった。昨晩はほとんど寝ていないので、ゆっくりと休む必要がある。
 切合から眺めると、草履塚への登りに雪渓が残り、急角度で谷に落ち込んでいるように見えた。軽アイゼンも持ってきていないので、雪渓歩きが心配になり、花の写真撮影がてら偵察に出かけることにした。切合の砂礫地帯を抜けていくと、早くもタカネマツムシソウが咲いていた。お盆の頃にはこの一帯を埋め尽くす花なので、晩夏の花というイメージがあっただけに、この時期にタカネマツムシソウに出会ったのは驚きであった。えび太が追いついたので、一緒に散歩することにした。雪渓に近づいてみると、傾斜は緩く問題はなかった。心配がひとつ消えた。雪消えしたばかりの草付きには、ハクサンコザクラが咲いていたが、これは初夏の花である。飯豊では、時期の異なる花が、すぐ隣で咲き競っているのが面白い。見事なお花畑が広がり、チングルマ、ヨツバシオガマ、クチバシシオガマ、アオノツガザクラ、ベニバナイチゴ、モミジカラマツの花を見ることができた。
 ここまで来たついでにということで、草履塚の上まで登ってみることにした。上の雪田を通り過ぎ、灌木で頭上を覆われたトンネルを登り詰めれば、草履塚の頂上である。ここよりも、先のピークの方が眺めが良いので、そこまで進むことにした。鞍部への下りの取り付きに腰をおろして、眺めを楽しんだ。姥権現から御秘所の岩場、御前坂の眺めが目の前に広がっていた。その上部に聳えるのは、飯豊本山の実際の山頂ではないが、飯豊の代表的な眺めといってよい。左には御西岳から大日岳に至る稜線が長く続き、豊富な残雪が谷を埋めていた。夏でもこれだけ残雪の残る山は、兄弟分の朝日連峰をのぞけば、北アルプス北部か大雪山系くらいのものであろうか。この風景を初めて見るえび太も、嘆声の声をあげて、風景に眺め入っていた。周囲をみわたすと、ヒナウスユキソウの群落が広がっていた。
 散歩を終えて切合に戻る途中、遅い時間にもかかわらず、飯豊本山をめざす登山者に何人も出会った。疲れたようにみえるのに頑張っているなと感じたが、後で考えると、切合小屋で宿泊を断られた登山者だったのかもしれない。雪渓からの雪解け水は冷たく、乾いた喉にはおいしく感じられた。下の雪渓まで戻ると、とんとんとほっきょくクマが散歩に来たのに出会った。暑くて昼寝をしていられないので、散歩にきたということであった。
 散歩から戻ると、切合で合流予定のウスユキソウも到着した。夕暮れも近づいたので、夕食の準備を始めることにした。回鍋肉、麻婆ナス、レタスとミョウガとミニトマトのサラダ(和風ドレッシング)にアルファ米の白販というメニューであった。ザックで運ぶ途中、ナスがつぶれて、中がなす臭くなったというので、ナスは山の食材としてはあまり良くないようである。調理に忙しく、フカヒレスープを出すのを忘れたが、皆十分に食べたようであった。食後には、お茶を飲んでゆっくりした。
 テントでゆっくりとした時間をすごした一方で、その頃、小屋の方は修羅場と化していた。小屋は満杯になり、野宿になった者が何人も出ているようであった。基本に忠実にツェルトを持ってきたものは、シェラフやマットは持っているはずなので、なんとか寝場所を作ることができたようであるが、予備の衣類や雨具を着込んで、軒下にうずくまって夜を明かすらしい者が大勢いた。夕食も、小屋の中は満員状態のため、小屋の外で座り込んで食べていた。海の日がらみの連休は、大混雑を覚悟して、この日ばかりはテントが必携である。
 日が暮れる頃からガスが出て、肌寒くなってきた。大きい方のテントに入って、飲み続けることにした。話の席が盛り上がったところで、となりのテントから「明日早いので、早く寝て下さい」という声がかかった。夜遅くならともかく、まだ、8時前の話であった。後から到着して、横にテントを張ったのは隣の方であった。隣は、ダンロップの山岳用大型テントを持ち込んだ一見ベテラン風であったが、食事のだんどりをみていると、各人ばらばらに準備をしており、まとまったグループとは思えなかった。混み合ったテント場で喧嘩をしても仕方がないので、すなおに寝ることにした。藪漕ぎ縦走や雪山では、誰はばかることなく大騒ぎできるのだが、混み合ったテン場では、この楽しみはお預けである。寝る準備の最中にも、もう一回注意の声がかかった。気の短い者が入っているグループなら、喧嘩になるところである。おかげで、8時には眠りにつくことになった。さっそく黒ヒョウが大きな鼾をかきはじめ、隣のテントから鼾がうるさいとクレームがつくかなと思ったが、さすがにこれには反応はなかった。テント場でまだ続く宴会の声を聞きながら眠りについた。
 二人用のテントに入ったが、夜は暖かく、メッシュの窓を開けた状態で寝れたが、明け方に涼しくなって寝袋に潜り込む状態であった。朝食をしっかり食べようとすると1時間30分はかかるはずなので、4時に起床した。朝食は、アルファ米の五目ご飯に漬物類に味噌汁。小屋の前は、朝早くから、人が起きだしていた。というよりは眠られずに朝を迎えたという方があたっているのかもしれないが、明け方の3時にはトイレ前に長い列が出来ていたという。二日目は、皆にはサブザックを用意してもらい、軽装で歩くことにした。大日岳までの往復となると、まる一日の行程となる。睡眠も十分に、元気良く切合を出発した。昨晩の言葉とはうらはらに、隣のテントはようやく起き出したところであった。
 朝はガスがかかり、展望は無い代わりに肌寒く、歩きに専念するには都合が良かった。早朝とあって、花も夜露に濡れた状態で、写真撮影は帰りに期待する状態であった。草履塚の先のピークに立ったところで、ガスの切れ間から御前坂方面の展望が広がった。写真映りの問題はともかく、山の様子は、皆の目に焼き付けてもらうことができた。急坂を下って姥権現の前にでると、付近は、ヒナウスユキソウやイブキトラノオの群生地になっていた。その先で今日の難所の御秘所の岩場の通過になる。ここでも、トントンに手や足の支点を指示する必要があったが、無事に通過できた。
 続いては、御前坂の急登。ララは、はあはあと大きな息をつぎ、回りの登山者からも心配の目を向けられていたが、本人にとっては、問題のない呼吸法のようである。縦走の大荷物だと辛い登りであるが、軽装にも助けられて、一王子のテント場までの急坂を登り終えることができた。
 本山小屋の前の混雑は、ひと段落したようで、神社をのぞくと、神主がほうきで掃除をしている最中であった。飯豊本山の山頂へは、なだらかな稜線をもう少し辿る必要がある。大きな展望が広がっているはずであったが、ガスが流れて、遠くは見えなかった。飯豊本山手前で、昨年イイデリンドウの群落を見つけて、写真をとった。今年もと思って探しながら歩いたが、花は見つからなかった。それらしい蕾はあったのだが、ミヤマリンドウとの区別のしようがない。リンドウは、日があたると花を開くようなので、帰りを期待するしかなかった。イイデリンドウを見るには、到着時間も考慮する必要があるようである。
 軽く登って、ようやく飯豊本山に到着した。展望は閉ざされていたが、皆にとって、待望の登頂である。個人個人で記念写真を撮った後、一同での記念写真。写真を撮り終えると、山頂に足を止める必要もないので、大日岳めざしての歩きを再開した。飯豊本山から一段下ると台地状になり、その先で駒形山の小さなピークが現れる。緩やかに下っていく幅広の稜線の左手には雪渓が迫り、草原の所々はニッコウキスゲの群落で黄色く染まっていた。御西岳付近は、なだらかな稜線が続くので、現在地が判りにくくなっていた。ガスが切れると、目の前に御西小屋が迫っていた。
 御西小屋周辺も、縦走路を行き交う人や、大日岳を往復する人で賑わっていた。大日岳は、まだ遠いが、皆も元気なようなので予定通り、先に進んだ。大日岳にかけての稜線も花が多いところである。薄日がさすようになって、リンドウも花を開き始めた。大日岳への登りにかかるあたりからは、多くのリンドウが咲いていたが、皆ミヤマリンドウであった。前を歩くグループの話し声を聞いていると、イイデリンドウの花街道だねと喜んでいたが、あえて訂正の声は挟まなかった。緩やかな登りが続き、大日岳へは急登があったはずだが、と思うようになった頃、ガスが急に消えて、目の前に大日岳の山頂がそそり立っていた。仰ぎ見ると、気持ちが萎えてしまうような急坂が待ちかまえていた。気持ちを奮い起こして、登りの足に力をいれた。山頂を踏んで下ってくる者もかなりいて、所々で足を止める必要があったが、足安めには都合が良かった。谷を挟んで聳える牛首山の鋭い山頂がひときわ目に付いた。
 下から見上げていた山頂は、稜線の張り出しで、登ってみると、本当の山頂へはもう少し奥に進む必要があった。大日岳へは、これが三度目の登頂になった。今回の目標のひとつに、西大日岳まで足を延ばすことがあった。大日岳の山頂には、三角点はなく、西大日岳に二等三角点が置かれている。登山地図には、赤の破線が記されていたが、今年の地図からは消されてしまっている。西大日岳には、これまでにも登りたいとは思っていたのだが、大日岳に登った第一回目は、夕暮れ時に登ったため時間の余裕がなかった。二回目にオンベ松尾根から登った時は、疲労が強かったのとガスが出ていて、足を延ばす余裕は無かった。大日岳まででも来るのは大変なので、今回がチャンスかと思っていた。
 大日岳から眺めると、草原の広がるなだらかな稜線の向こうに、ピラミッド型をした西大日岳の山頂をのぞむことができた。草原の中を団体のグループが歩いているのが見えた。西大日岳までは、片道40分、往復1時間30分程で歩けそうに思えた。
 後ろから登ってくるウスユキはかなり遅れているようなので、西大日岳まで行ってくると伝言を頼んで先に進んだ。結局、えび太、ほっきょくクマ、黒ヒョウも付いてきて、4人で西大日岳をめざすことになった。
 大日岳からの下りは、登山道に灌木がかぶって少し歩きづらかったが、道型ははっきり残っていた。一段下ると、雪渓の縁に出た。右手の草原に沿って登山道が続いていたが、雪原に下りて近道をした。草原にはニッコウキスゲの群落が広がっていた。登山道も草に覆われかけており、西大日岳の山頂を目で捕らえながら歩く分には問題は無いが、ガスでも出ようものなら、難しい歩きになりそうであった。途中で、中高年の団体を追い越した。谷に落ち込んでいる雪渓の上に黒い物がおり、見るとクマであった。100mほど離れており危険は無さそうなのでカメラを取り出そうとすると、気づかれてしまい、一目散に逃げていってしまった。
 西大日岳の山頂は、形が整っているためにスケール感が狂ってしまったようで、実際にはひと登りで頂上に到着した。小広場には、三角点が頭を出していた。地形図には、この先、薬師岳まで登山道が書かれているが、かすかな踏み跡といった状態のようであった。背の低い灌木と草原が広がっているようなので、そう難しい歩きでは無さそうであったが、大日岳で待っている一行が気になって、今回は引き返すことにした。団体が登ってきたが、三角点があったとか、この先はどこに続いているのかと尋ねてくる者がいるなど、西大日岳まで歩いてきた目的が判らない。烏帽子山を経て蒜場山といっても、判らなそうであった。西大日岳から振り返れば、大日岳は、なだらかな稜線が登っていく先に、大きな山頂を見せていた。
 早足で大日岳に戻り、待ちかねていたトントン一行と合流した。ひと休みした後、おきまりの記念写真を撮った。切合までは、距離もあり、また登り返しもあるため、まだまだ気合いを入れて歩く必要があった。大日岳からの下りでは、多くの登山者とすれ違った。飯豊本山は高く遠くに見えた。青空が広がり、花も太陽の下に輝きはじめていた。御西岳が近づくと、ミヤマリンドウに代わって、イイデリンドウが見られるようになってきた。途中の雪渓で、ひと休みした。残雪を前景にした大日岳は、飯豊連峰最高峰の名前に相応しく、大きなピラミッド型の姿を見せていた。
 御西岳に戻ってひと休み。御西岳の三角点にもよっていくことにした。御西岳の山頂は、登山道から20m程はずれた所にある。踏み跡が続いているのだが、このピークによっていく登山者はみかけない。三角点の周りはニッコウキスゲのお花畑が広がっていた。北股岳にかかっていた雲も消えて、ようやく縦走路北部の眺めも広がった。青空が広がるにつれて、暑くなってきて、飯豊本山への登り返しが辛く感じられるようになってきた。朝からこの陽気だったとすると、大日岳往復は、体力の消耗が相当に激しくなったはずなので、朝のうちガスがかかって涼しい中を歩けたのは、幸いだったようである。
 飯豊本山に登り返したところで、大きく遅れたウスユキを待って大休止になった。トンボの大集団が山頂付近を乱舞していた。
 本山小屋の前を通り過ぎる時、小屋番と登山者の会話が聞こえてきた。「今晩は1畳5人になります。テントを持っているなら、テントで寝て下さい。」1畳5人というのは、驚異の密度である。膝をかかえて座るのがやっとの状態であろうか。本山小屋ともなると標高が高いため、野宿を言い渡すことができず、詰め込んでいるようであった。話を聞いているグループも、天気に不安がない状態なのに、テントで寝ないという理由が判らない。
 御秘所の岩場も無事に通過し、草履塚に向かっての最後の登りになった。朝方とは違って、草履塚手前のピークの上からは、絶景が広がっていた。再び飯豊を訪れたくなる、名残の眺めであった。1日かかって歩いた稜線が目の前に続き、大日岳は西に傾いた夕暮れの逆光に輝いていた。我が家へとの思いで、切合のテント場に急いだ。
 相変わらず、切合小屋は大混雑であった。二日目の夕食は、ちらし寿司にした。アルファ米の白販とちらし寿司の元をコッフェルの中でかき混ぜ、乾燥錦糸玉子とショウガ、サヤインゲンで彩りを添えた。カニ缶が高くて手がでず、またウナギのレトルトパックが見あたらなかったため、サンマの照り焼き缶詰で代用した。保存食主体のメニューとしては、なかなか美味しくできた。デザートのキーウィーは、暖かいテントの中に一日放置してしまったため、画期的な甘さになっていた。一日の長い歩きのおかげで、その晩は、早々と眠りについてしまった。
 最終日は、下山するばかりであった。切合のテント場からは、朝日に輝く大日岳をのぞむことができた。ららが大きなゴミ袋を用意してきており、まとめてザックにくくりつけてくれたのには感謝であった。朝から暑くなっていた。三国岳までは、細かいピークの乗り越しで、帰りも体力を消耗した。問題の岩場も、トントンには足場を細かく指示して、無事に通過した。先行のグループも、この下りで手まどって渋滞ができていたので、鎖場に慣れていないと、ここの通過には手間取るようである。
 三国岳でウスユキと分かれ、疣岩分岐からは、上ノ越経由で下山することにした。上ノ越経由の道は、登山地図では赤の破線で書かれているが、しっかりした道で危険箇所も無い。刈り払いも最近行われたようで、枯れ草が登山道を覆っており、足下がふわふわしていた。巻岩山を越すと、上ノ越手前の小さなピークの乗り越しまで、長い下りが続く。上ノ越で鏡山からの登山道と合流すれば、祓川に向かっての最後の下降になる。足に疲労が出てきて、急斜面の下りでは、皆尻餅をつきやすくなってきた。ららが尻餅を付くと、体重のせいもあり、地響きが起こるような感じであった。もっとも、転んでもブナ林の中の道で、転落といった心配はなかった。
 最後は、祓川の駐車場の脇に飛び出して、3日間の飯豊山行は終わりになった。奥川の酒屋によってアイスクリームを食べ、津川の温泉で汗を流して解散となった。

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