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丸山・城山(時水城跡)、朝日山、藤権現・駒見山
田代平湿原、鞍掛峠


【日時】 2001年6月23日(土)〜24日(日) 各日帰り  大雲沢ヒュッテ泊
【メンバー】 6月23日 単独行 24日 テクテク会(11名)
【天候】 6月23日:曇り 24日:雨後曇り

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 丸山・まるやま・372.5m・二等三角点・新潟県
 城山(時水城跡)・じょうやま(ときみずじょうせき)・384m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小千谷
【ガイド】 皆川さんの個人情報

【山域】 長岡東山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 朝日山・あさひやま・341m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小千谷
【ガイド】 なし

【山域】 長岡東山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 藤権現・ふじごんげん・233.5m・三等三角点・新潟県
 駒見山・こまみやま・262m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【ガイド】 なし
【温泉】 小出ふれあい交流ゼンター見晴らしの湯こまみ 500円 石鹸・シャンプー

【山域】 守門岳周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 田代平湿原・たしろだいらしつげん・900m・なし・新潟県
 鞍掛峠・くらかけとうげ・960m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/守門岳/守門岳
【ガイド】 新潟花の山旅(新潟日報事業社)
【温泉】 ニュー浅草岳温泉洞窟風呂 600円(団体500円) 石鹸・シャンプー

【時間記録】
6月23日(土) 8:30 新潟発=(関越自動車道、小千谷IC 経由)=8:40 両新田登山口〜9:58 発―10:17 地獄谷温泉分岐―10:37 水場―10:39 桐沢峠〜10:44 発―10:53 丸山〜11:15 364mピーク―11:19 時水分岐―11:33 城山〜11:55 発―12:02 水場(お茶の水)分岐―12:26 時水冬城―13:03 両新田登山口=(小千谷、R.291、朝日山入口 経由)=13:32 朝日山=(朝日山入口、R.291、小千谷、R.17 経由)=14:42 小出公園―14:59 藤権現入り口―15:00 藤権現〜15:04 発―15:05 藤権現入り口―15:20 駒見山取り付き―15:25 駒見山―15:30 駒見山取り付き―15:47 藤権現入り口―16:01 小出公園=(R.252、大白川 経由)=18:30 大雲沢ヒュッテ (大雲沢ヒュッテ泊)
6月24日(日) 9:00 大雲沢ヒュッテ発=(五味沢、田代平林道 経由)=9:33 田代平駐車場―9:38 田代平湿原入り口〜10:12 発―10:51 小松横手―11:22 鞍掛峠〜11:55 発―12:22 小松横手―12:45 田代平湿原入り口―12:51 田代平駐車場=(田代平林道、五味沢、R.252、渋川、R.291、栃尾、R.291、下田、R.290、黒水、加茂、R.403、茅野山IC 経由)=17:50 新潟着

 丸山と城山(時水城跡)は、信濃川左岸に沿って延びる、小千谷の町の背後の丘陵地にあるピークである。西山遊歩道としてハイキングコースが整備されている。
 信濃川右岸にある小千谷市の朝日山は、戊申戦争の際、河井継之助の率いる長岡藩が陣を置いた山として知られている。山頂まで車道が通じており、容易に山頂一帯の旧跡を訪れることができる。
 藤権現と駒見山は、小出のスキー場の背後の山である。藤権現は、山頂に富士浅間神社の石碑が置かれ、スキー場から延びる林道から道が続いている。駒見山は、小出スキー場のリフト終点のあるピークの南隣にある山である。林道が山頂直下を通過しているが、山頂への道は無い。麓には、この山の名前をとったのか、「駒見の湯」という日帰り温泉施設がある。
 田代平湿原は、守門岳の北東部にある烏帽子山と浅草岳の間にある、東西500m、南北300m程の湿原である。湿原の脇を、越後と会津を結ぶかつての街道の、八十里越が通っている。鞍掛峠は、八十里越の最高点で、中間点の峠である。

 長岡の皆川さんから山の資料を頂き、その中にあった丸山から城山へのハイキングコースが気に掛かっていた。コース標識も整備されているが、冬の間は撤去されるということで、翌シーズンの課題になっていた。日曜日に大白川で集まりがあるため、土曜日にこのコースを歩くことにした。
 小千谷ICの高速出口を町と反対に曲がり、すぐに左折して、高速道と平行に走る道路に進んだ。両新田の登山口は、地図にある長方形の用水池の脇あたりのようであったが、その方面に曲がる道路脇に、西山山系遊歩道の標識が立てられていた。山際にJA小千谷水稲育苗施設の建物があり、その後の未舗装道路に変わった所に、両新田口の標識が立っていた。建物に隠されて見えなかったが、建物の裏手に貯水池が広がっていた。路肩のスペースに車を停めた。
 看板脇から、林道跡のような幅広い道が分かれていた。すぐに右に曲がり、左手に谷を見ながらの、尾根の一段下を緩やかに登っていく道が続いた。周囲は雑木林が広がり、秋には紅葉が美しそうであった。シロバナホタルブクロ、エゾアジサイ、コシジシモツケソウの花も現れて、思っていたよりも自然の豊富な山であった。特に急な所もなく、家族連れでも問題なく歩ける道であった。ひと登りすると、標識があり、地獄谷温泉登山口からの道が合わさった。車の走行音が聞こえ、国道がすぐ下を通過していた。尾根を乗り越え、今度は右脇をトラバースするような道になった。沢にぶつかり右に大きく曲がるところには、パイプが差し込まれた水場があった。ここでひと休みとも思ったが、先に進むと、僅かな歩きで桐沢峠に到着した。
 桐沢峠の右上には送電線の鉄塔があり、ここまでの幅広の道は、送電線の巡視路として整備されているようであった。峠の向こうには、小国町方面の眺めが広がり、はっきりした道が下っていった。地図には、小国側の道は書かれているのに、小千谷側の道は記載されていない。R.290がトンネルでこの丘陵地帯を通過するまでは、この峠道は生活道として使われていたはずなので、この片手落ちの理由が判らない。峠の脇には石仏が置かれて、峠の風情をかもしだしていたが、そう古いものではないようであった。つつじ園入り口という標識も立てられ、その季節には、花を楽しめるようであった。
 峠からは、稜線伝いの山道の登りになった。傾斜も少し増したが、ひと登りで丸山の山頂に到着した。山頂は、芝地の小広場になって、展望が開けていた。あいにく雲が低くたちこめており、信濃川の流れと山本山が目に入ってくるだけであったが、晴れていれば、長岡東山連峰、権現堂山塊、越後三山も眺めることができそうな好展望台のようであった。反対側には、米山の山裾が広がっていた。広場の片隅には三角点が埋まっていたが、小さなマンホールがあるのに気がついた。金属の蓋を持ち上げると動くので、中を覗いた。金属製の三角点標識と同じ物が埋めてあり、「東大地震研究所GPS基準点」とあった。研究機関が、このようなGPS基準点を独自に埋めているとは知らなかった。以前、岩木山で見かけたGPS基準点も、国土地理院のGPS測定点とは別の機関のものだったのかもしれない。マンホールの蓋を閉めていると、城山方面から山菜採りのような二人連れが歩いてきた。山道にはワラビが生えていたので、それが目当てだったのだろうか。
 丸山から先、登山道の両脇は、木立の背も低く、展望を楽しみながらの歩きが続いた。クリかなにかの木に咲いた花には、蜜を吸う蝶が何匹もとまり、脇を通ると飛び立って乱舞した。
 ひとつ小さなピーク(364mピーク)を越すと、前方に城山が姿を現した。ゆっくりと下った鞍部には、左から時水からの登山道が上がってきていた。城山に向かって登っていくと、空堀の跡のような5m程の段差が現れた。ロープや鎖が垂れ下がっていたが、登山道にはステップが切られているので、登るのに難しいことはなかった。城山の頂上直下は、人工的に削られたような急斜面なので、一旦通り過ぎてから戻ると、あずまやの前に出た。その背後の高みが城山の山頂で、最高点には石仏が置かれていた。
 山頂からは、歩いてきた丸山からの稜線を振り返り見ることができた。山頂一帯は、草地となり、展望が広がっていた。山中には、小国峠へ55分という標識が立っていた。南に向かって山道が続いていたが、草が少し被っていた。先に進もうかと迷ったが、車の回収を考えると、この城山から時水に下山するしかないようであった。いつか、小国峠から城山まで歩いてみよう。道が整備されていれば、車を両登山口にセットしての、途中で宴会の場所もある、一日のハイキングコースとしてうってつけなのだが。
 あずまやの下には、時水城跡の説明が、次のように書かれていた。

時水城跡
 昭和四十七年四月一日市文化財指定
 この城跡は、小千谷市と刈羽郡の分水嶺をなし、南北に走る山系の主峰の山頂及び東方にに分岐した尾根に築かれた山城です(標高384m)。主郭は約60×30mで、三方に下る尾根には大小多数の郭群や堀切が備えてあり、城域は東西400m・南北300mの広がりをもっています。
 南北朝時代、新田氏の将小国氏の要害であったと云われ、さらに正平年間(1346〜69)に、上杉氏の将曽根氏が拠ったと伝えられています。上杉謙信に背いたため天文二十一年(1552)に、蒲生城主大平氏に攻め落とされたと伝えられていますが、確証はありません。
 本城山頂より東に派生した尾根の山麓には、支砦的役割を成し、冬季作戦のため冬城が築かれました。本城の東麓、時水集落には「御屋敷」・「北屋敷」・「中屋敷」などの地名が残り、時水城主の居館や関連する遺跡が存在した可能性があります。
 平成十二年七月 小千谷市教育委員会

 この一帯の山城は、南北朝の新田氏と上杉謙信の、二つの時代に戦乱の舞台として、歴史に登場するようである。
 城山の山頂から時水に下る道があるが、この道も地図には記載されていない。一旦、南に向かてから方向を変え、山頂から東に下っていく尾根にのった。少し下った所には、水場(お茶の水)の入り口の標識がたっていた。286.8m三角点ピークは、右手を巻き、その先で尾根から左に下った。近づいてきた里の風景を眺めながら下っていくと、桜のような植林がされた造成地に出た。時水冬城という標識があり、左手の小ピークに道が続いていたので、寄っていくことにした。空堀に丸太橋が架けられていたが、傾斜があり、濡れていたら危なそうであった。頂は木立に囲まれていたが、東の縁に出ると、集落がすぐ下に見えた。田圃の縁まではたいした距離ではなかったが、草に覆われて道はなさそうなので、登り口に戻った。麓にある民家は改築中で、公園施設として整備しているようであった。
 両新田登山口に戻るには、そうたいした距離ではなかったが、地図を見ながら歩く必要があり、最後は畑のあぜ道を通って近道をした。
 続いて、朝日山を訪れることにした。明日は、八十里越えの途中にある田代湿原を訪れる予定であり、八十里越というと、河井継之助・朝日山古戦場という連想をしてしまう。以前より、R.291で山古志を訪れる際、朝日山入口という標識が立てられているのに気がついていた。地図を見ると、車道の終点から少し歩くようなので、ハイキングとしても手頃かと思った。
 朝日山入口から車道を進むと、舗装されているが一車線幅の道になった。対向車が来たならば、すれ違いに苦労しそうな道であった。カーブも多く、慎重な運転が必要であった。どこまで車で入れるのだろうと思いながら車を走らせていくと、予想外にも山頂の駐車場に到着してしまった。
 山頂には、展望台の建物があり、中には、戊辰戦争の資料が展示されていた。両軍の陣形図や手紙とともに、幕軍の軍監岩村清一郎と河井継之助の写真が掲示されていたが、特に岩村清一郎の若さ、24才、には驚かされた。明治維新という革命は、若者によって遂行されたようである。展望台の上からは、雲で視界が閉ざされているせいもあって、信濃川の流れを見下ろすことができるだけであった。山頂には、フランス式塹壕や砲台跡の遺跡が残されていた。河井継之助は、この朝日山の戦いから長岡攻防戦に移り、結局破れて戸板で八十里越を越し、只見で落命することになる。司馬遼太郎の「峠」で河井継之助の名前は広く知られているが、この朝日山を訪れる者は少ないようである。公園状に良く整備された朝日山の山頂には、静かに雲が流れていた。
 結局、朝日山には、車であがってしまったので、もう少し山歩きをすることにした。大白川に向かう途中で温泉を考える必要があった。小出スキー場近くに日帰り温泉施設ができたというのを聞いていたので、スキー場の上にある藤権現と駒見山をめざすことにした。
 小出スキー場は、夏は小出公園として整備され、ゲレンデには花が植えられて、遊歩道が巡らされている。ゲレンデの下に車を停めて歩き出した。小出のゲレンデは、小学校の時に、足立区と小出町の交換会に参加して訪れて以来のことで、40年ほども昔のことになる。当時は、振り分け型のリフトで、山の反対側にも続いており、乗り続けていると、そのまま山を下りてしまうのが面白かった覚えがある。今は、第一、第二リフトの二つに分かれているようである。その上の第3リフトは、昔もあったのかどうか。急斜面にかかっており、その当時あっても、小学生には無理で行かなかったように思える。
 ゲレンデをひと登りした第3リフトの乗り場周辺は駐車場になっており、ここまで上がってきている車もいた。どうやら、ゲレンデ下部から駒見の湯へ抜ける道の途中から上がってこられるようであった。この先は、林道歩きが続いたので、車で上がってくれば、楽をできたのだが、歩きに来たので良しとしよう。舗装道路は、トラバース道に入ると未舗装の道に変わった。眼下に小出の町を見下ろしながらの歩きが続いた。林道が稜線の北側に回り込む地点で、北に向かう山道が分かれていた。
 ひと登りで藤権現の山頂に到着した。富士浅間神社と書かれた石積みがあり、山名の由来も納得がいった。元旦登山五十回記念碑なるものもあり、地元の信仰の山であることを知った。冬季は、スキー場の上部にあるといっても豪雪地の山で、短い区間といっても、ラッセルが必要になる。元旦に50回登るということは、一生が必要になる勘定で尊敬に値する。もっとも、自分だったら、一生を一つの山に縛られたくはない。
 林道に戻って、駒見山に向かった。稜線の北側を巻く道が続いた。藤権現から先は、林道は少し荒れてきたが、それでも、車の走行は可能な状態であった。反射板の立つ小ピークを過ぎると、次が第3リフトの山頂駅のあるピークになった。駒見山は、その次のピークであった。背後には、もっと高いピークが続いているが、その手前の小さなピークが駒見山のようであった。林道は、駒見山の北側を巻いているように地図には記載されているが、北側の道は藪に覆われ、南側に道が続いていた。
 林道の分岐から、駒見山に取り付いた。杉林の中の踏み跡を辿っていくと、すぐに藪にぶつかってしまった。道の無い山のようなので、藪に突入した。三角点の無い山で、山頂部は台地状のため、どこが山頂として良いか判らなかった。これ以上は高い所はなさそうなことを確かめて、登頂ということにした。
 下山に移って藪を漕いでいると、腕と頭に同時に激痛が走った。直後にブーンという羽音が聞こえ、ハチに襲われたようであったが、その後の襲撃はなく、ハチの姿も見なかった。痛みはかなりあり、少し膨れたが、腫れ上がるということもないのが不思議であった。いずれにせよ、これまでハチに対してはあまり用心はしてこなかったが、これからはせめて帽子くらいはかぶることにしよう。
 夕暮れも近づいてきたので、駒見の湯に入って山は終わりにした。
 インターネットの知り合いのトントンさんが主催するテクテク会の顔合わせということで、大白川の大雲沢ヒュッテに7時に集合することになっていた。6時30分に大雲沢ヒュッテに到着して、中に入ろうか迷っていると、とんとんさん一行も到着した。ヒュッテのご主人を含めて、8名が集合し、山菜が並ぶ夕食を楽しんだ。郡山の柏屋製のモンブランのケーキの差し入れもあり、部屋に戻ってからも山の話が盛り上がった。12時を回ったところで眠りについたが、翌日まで酒が残ることになった。
 朝は、水音で目を覚ました。川のせせらぎの音かと思ったら、樋から流れ落ちる雨音であった。本降りの朝になった。予定では、通常は通行止めの林道に入って、田代平湿原を案内してもらうことになっていた。しかし、この雨では、戸外で腰をおろしての休憩は無理そうであった。傘をさして、最低限の荷物で歩くように装備の変更が必要になった。
 日曜日は、守門岳と浅草岳の山開きの日で、大雲沢ヒュッテのご主人は朝からいそがしそうにしていた。大白川駅で、日曜日のみ参加の三名を迎え、9時に大雲沢ヒュッテのマイクロバスで田代平湿原に向かった。浅草林道脇にあるゲートから先の田代平林道は、車でも長い距離があった。歩くと2時間程はかかる距離で、そのおかげで、田代平湿原は訪れる者は少ない秘境になっている。
 八十里越の分岐を2箇所すぎると、林道終点の広場になった。広場からは、木道の道と、八十里越の街道道の二本が続いていた。雨で草が倒れ込んでいるため、街道道に進んだ。大雲沢ヒュッテのご主人は、自然観察インストラクターの資格を持っているとのことで、草の名前を教えてもらいながらの歩きになった。僅かの歩きで、田代平湿原への分岐に出た。
 坂を下っていくと、田代平湿原に下り立った。木道は一部にしか敷かれていないが、思ったよりも大きな湿原であった。林道終点広場にあった越後三山只見国定公園の看板には、
「 田代平は、標高890m、八十里越に近く、ブナ林に囲まれた静寂な環境にある。この湿原は、山地崩壊に伴い一時的に湖沼が生まれ、それを埋積する課程で形成された泥炭地と考えられている。
 湿原は、30ヘクタールほどの大きさで、湿性植物やミヤマカワラハンノキ、ミズナラなどの混生する低木林からなっている。湿原の中央部には、北西から南東へ小流があり、その北側ではミズバショウが生育している。小流の東南側は、ヌマガヤの多い湿性草原が広がる。
 湿性草原の中央はやや高く、この地域をとり囲むように様々な植物群落がモザイク状に分布している。」と書かれていた。
 湿原一帯では、ミズバショウやミツガシワ、モウセンゴケ、ホウチャクソウ、ヤブテマリの花を見ることができた。雨に濡れた湿原は、つややかな緑の色をみせ、しっとりとした眺めを見せていた。湿原には、傘をさしての見物が似合うような気がする。モリアオガエルの卵が、木に産み付けられており、体長40セントほどの蛇も、木道をのんびりと横切っていた。静かな、自然が良く残されている湿原であった。
 湿原入り口の分岐に戻り、鞍掛峠をめざすことになった。思ったよりもしっかりした山道が続いていた。ほとんど水平な道であったが、途中でいくつもの小さな沢を渡るため、距離も長くなり、時間もかかった。雪渓の残る沢もあり、渡ると冷気が流れていた。途中で、ヒメサユリが現れ、最初の1本で感激していたら、その後で何本も出会うことになった。
 小松横手という展望地では、田代平湿原を眺めることができた。峠越えでこの湿原を眺めた旅人は、ほっと一息ついたに違いない。左手の烏帽子山と黒姫に挟まれた谷間には、ブナの原生林が広がっていた。
 右上に走っていた稜線が落ち込んできたと思いながら、あいかわらず水平な道を進んでいくと、鞍掛峠に到着した。峠には、小さな石の祠と新しい石碑が置かれていた。峠から先は、草の覆い被さった山道が続き、谷の向こうには粟ヶ岳が山頂を雲の上に現していた。
 いつの間にか雨はあがっており、越を下ろしてひと休みすることができた。雨の中で休憩もままならぬかと思っていただけに、天候の回復は有り難かった。賑やかな楽しい休憩タイムになった。
 峠からの戻りは、行きよりも短く感じる歩きになった。車で林道を戻る途中、太陽が青をのぞかせ、青空が広がった。
 大雲沢ヒュッテのご主人にお礼をいって別れ、ニュー浅草岳温泉洞窟風呂に入ってから解散となった。


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