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山本山
陣ヶトド山
節黒城跡、庄司山、倉下山
権現山、城山(犬伏城山)、松代城山、蒲生城山、鍋立山、六夜山、霧ヶ岳、城山(直峰城跡)


【日時】 2001年5月8日(火)、10日(木)、11日(金)、12日(土) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 8日:曇り、10日:晴、11日;晴、12日:晴

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 山本山・やまもとやま・336.1m・三等三角点・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小千谷
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報事業社)

【山域】 魚沼丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 陣ヶトド山・じんがとどやま・419.5m・四等三角点・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/十日町/十日町
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 節黒城跡・ふしくろじょうせき・362m・なし・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/岡野町/岡野町
【ガイド】 新潟県キャンプ場ガイド(新潟日報事業社)

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 庄司山・しょうじやま・335m・なし・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/岡野町/岡野町
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 倉下山・くらしたやま・353.6m・三等三角点・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/岡野町/岡野町
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 権現山・ごんげんやま・495.3m・二等三角点・新潟県    
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/松之山温泉/千手
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 城山(犬伏城山)・じょうやま(いぬぶしじょうやま)・365.5m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/松之山温泉/千手
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 松代城山・まつだいじょうやま・385m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/松之山温泉/松代
【ガイド】 ふるさとの散歩道(新潟県観光協会)

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 蒲生城山・かもうじょうやま・379m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/松之山温泉/松代
【ガイド】 武田さんの情報

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 鍋立山・なべたちやま・540.6m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/松之山温泉/松代
【ガイド】 なし

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 六夜山・ろくやさん・411.7m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/安塚
【ガイド】 「百山百色」(保坂さん)

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 霧ヶ岳・きりがたけ・507.1m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/安塚
【ガイド】 「百山百色」(保坂さん)

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 城山(直峰城跡)・じょうやま(のうみねじょうせき)・344.0m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/安塚
【ガイド】 新潟の里山(新潟日報事業社)

【時間記録】
5月8日 17:00 山本山
5月10日 16:30 林道終点―16:39 林道分岐―16:48 北の肩―16:53 陣ヶトド山〜16:54 発―16:56 林道―17:05 林道分岐―17:13 林道終点
5月11日 16:46 節黒城跡駐車場―16:49 節黒城跡〜16:54 節黒城跡駐車場=(川西ダム 経由)=17:12 林道分岐―17:22 庄司山―17:31 林道分岐=(川西ダム、仁田、県道小白倉木落線 経由)=17:56 倉下山南の林道分岐―18:04 倉下山―18:09 倉下山南の林道分岐
5月12日 5:30 十日町発=(R.253、小泉、林道薬師線 経由)=6:12 林道分岐―6:28 権現山―6:35 林道分岐=(広域基幹林道魚沼丘陵線、十日町川西線、室島、R.403 経由)=7:20 犬伏登山口―7:42 犬伏城山〜7:45 発―8:04 犬伏登山口=(R.253、松代 経由)=8:30 山頂手前のカーブ地点―8:34 松代城山―8:37 山頂手前のカーブ地点=9:01 松代中学校―9:17 鉄塔―9:24 稜線分岐―9:30 350mピーク―9:44 蒲生城山〜9:49 発―9:58 350mピーク―10:05 稜線分岐―10:14 鉄塔―10:20 松代中学校=(R.253、池尻、R.403、峠 経由)=10:52 小豆峠―10:56 登山道入り口―11:08 鍋立山〜11:12 発―11:19 登山道入り口―11:24 小豆峠=(峠、R.403、大島、細野 経由)=11:56 林道分岐―12:11 峠部の林道口―12:19 六夜山―12:31 林道―12:40 林道分岐=(細野、R.403、坊金 経由)=13:08 峠―13:16 尾根取り付き―13:45 霧ヶ岳〜13:59 発―14:28 尾根取り付き―14:37 峠=14:55 直峰城跡駐車場―15:10 直峰城跡〜15:13 発―15:24 直峰城跡駐車場=(安塚、虫川、R.253、浦河原、柿崎IC、北陸自動車道 経由)=17:30 新潟着

 山本山は、信濃川と魚野川が合流点する越後川口の、信濃川左岸にある山である。山頂一帯は、夏は牧場地、冬はファミリー向けスキー場となり、展望台として親しまれている。中部北陸歩道が、山本山を通過しているが、車道が山頂まで通じている。
 陣ヶトド山は、十日町を流れる信濃川右岸の山である。山頂直下を林道が通過しており、僅かな登りで山頂に立つことのできる山である。麓には、火炎式縄文土器が発掘された笹山遺跡がある。
 節黒城跡は、信濃川左岸の川西町にある川西ダムの西に位置するピークである。山頂直下には、キャンプ場が整備され、本丸跡は展望台となっている。節黒城跡は、南北朝時代の天正7年(1352)に武蔵国小手指ヶ原の戦いに敗れた新田吉宗が越後に退いた時に築城し、その後上杉謙信に仕える上野氏が改修した山城と伝えられている。
 庄司山は、信濃川左岸の川西町にある川西ダムの西に位置するピークである。山頂直下を荒れた林道が通過しており、その切り通しによって、山頂部が削り取られている。
 倉下山は、信濃川左岸の川西町にあるピークで、山頂直下を車道が通過している。
 権現山は、信濃川左岸の、十日町と川西町との町界線にあるピークである。二等三角点が置かれているが、山頂近くを林道が通過している。
 城山(犬伏城山)は、松代町犬伏の西に位置し、山城が置かれていた。
 松代城山と蒲生城山は、松代町の南と西にそれぞれ位置する山城の置かれていたピークである。松代城山は、山頂直下に天守閣風の建物が設けられ、町のシンボルになっている。それに対し、蒲生城山へは、一般登山道はなく、藪に囲まれている。南北朝時代、南朝方新田義貞に味方した風間信濃守信昭は安塚の直峰城を開いたが、その一族風間九郎左ェ門定勝が、松代城に拠っていたという。
 鍋立山は、松代町と大島村との境界線上にある山である。山頂まで登山道が通じて、麓の集落に親しまれているようである。
 六夜山は、大島村と安塚町との境界に位置する山である。山頂は桜の植えられた園地になっており、アクセス道路の整備も行われている最中で、公園化の予定があるのかもしれない。
 霧ヶ岳は、安塚町と浦河原村との境界に位置する山である。南山麓には坊金の大杉と呼ばれる古木がある。
 直峰城跡のある城山は、南北朝時代、南朝方新田義貞に味方した風間信濃守信昭の居城で、十六世紀前半、越後守守護代長尾為景の家臣・吉田周防守英忠が城主となり、上杉謙信時代は春日城の支城として重要な役目を果たした。現在では、山頂一帯に遊歩道が整備されている。

 連休明けより一週間の出張が入って、十日町近くに滞在することになった。仕事が早めに終わって、夕食の間に時間がある時と、その後の週末に、周辺の低山巡りを行うことにした。低山であったり、車乗り付けの山であればなおさら、新潟からわざわざ出かける気にはなれず、機会を有効に利用する必要がある。
 山本山は、越後川口ICを下りて、R.117を十日町方面に向かう時に、山頂への道路標識が目に入って気になっていた。夕暮れ近く、車を山本山に向かって走らせた。高速道の高架下から、山頂に向かう道が始まっていた。立派な道路で、快適なドライブが続いた。途中、展望台があり、車を下りて眺めると、信濃川の流れを眼下に眺めることができた。おそらく、目の前には越後三山が広がっているはずであったが、雲に隠されていた。山頂一帯はアンテナ塔が並び、その高みに向かって車を走らせた。山頂は、広い駐車場になって、リフトの山頂駅がかたわらに設けられていた。
 山頂の広場には、石碑や展望台が並んでいたが、三角点をまず探すことにした。芝生の中に無事に見つけて、ともかく登頂成功とした。石碑を眺めると、詩人の西脇順三郎のもので、「山あり河あり 暁と夕日とが綴り織る この美しき野に しばし遊ぶは 永遠にめぐる 地上に残る偉大な歴史 西脇順三郎」と彫り込まれていた。そういえば、西脇順三郎は、小千谷出身であった。山本山は、ちょっとした観光スポットとして、ドライブのついでに寄ってみると良い山である。
 陣ヶトド山は、地図を眺めていて、その名前に興味を持った。陣は古戦場か山城に因んだものとして、トドとはなにをさしているのか。まさか海獣のトドではないとは思うのだが。その名前からは、山の上にトドが寝そべっている姿を思い浮かべてしまう。
 陣ヶトド山の山頂直下を林道が通っているが、その入り方が良く判らなかった。とりあえず、野球場の標識に従って山に向かうと、狭い谷間に向かって、一車線幅であるが舗装道路が続いていた。田圃の脇を通り抜けていくと、車道は終わり、終点の広場になった。その先に山道が続いており、稜線部を通過している林道に回ることも考えたが、ここから歩き出すことにした。
 杉林の中を登っていくと、水平方向に伸びる山道に出あった。これが地図に出ている稜線部の道かと思ったが、稜線までは少し距離があった。T字路から上方に向かっては道は無くなったが、藪は薄かったので、そのまま真っ直ぐ登った。稜線部に出ると、舗装された林道が続いていた。ここまで車でも上がれるようであった。
 下降点にテープを付け、右折して、陣ヶトド山に向かった。地図を見ながら歩いていくと、前方にちょっとした高まりの陣ヶトド山が近づいてきた。北の肩から尾根に上がって、藪をこいで山頂をめざした。山頂手前で、空堀のような切れ込みが現れた。やはり山城が置かれていたのかもしれない。
 山頂は、刈り払われ、中央に三角点が頭をのぞかせていた。東には、越後三山を望むことができた。山の眺めで、仕事の疲れが少し軽くなったような気がした。
 山頂から南に踏み跡が続いていたので、この道を下ってみると、すぐに林道に飛び出した。入り口には、ピンクのリボンが掛かっており、測量のために付けられた道のような感じであった。夕暮れを気にしながら、足早に下る必要があったが、山道の脇にはイカリソウの花が多く見られた。
 帰りに、野球場脇の焼山遺跡をのぞいていくと、火炎式縄文土器の発見場所で、レプリカ模型を埋め込んだ記念碑が設けられていた。
 仕事がようやく終わった金曜日の夕方、短時間で登ることのできる山として、庄司山に向かった。信濃川を栄橋で渡り、川西ダムに向かった。ダムの入り口に、節黒城跡という看板があったので、寄っていくことにした。近くにはキャンプ場が設けられているようであったが、幅の狭い道が続いた。キャンプ場を過ぎると、稜線の上にでて、そこには広い駐車場が設けられていた。遊歩道の先には、お城風の展望台が設けられていた。展望台の脇からひと登りで節黒城跡の山頂に到着した。地図を見ると、名前は記載されていないが、川西ダムの西に城跡マークの書かれている362mピークが、節黒城跡のようであった。山頂広場の一隅には、節黒城跡と書かれた石碑が置かれていた。
 川西ダムに戻り、庄司山に向かった。ダムサイトの道を登っていくと、未舗装に変わり、稜線部に上がると右に林道が分かれた。その入り口には鎖がかかっていた。地図や道路地図を見ただけでは、どこまで車が入ることができるかは判らない。たいした距離ではなさそうなので、歩くことにした。歩き始めてすぐに左右に道が分かれた。右の道の方がしっかりしていたが、庄司山は左の道が正解のようであった。植林のための作業道のようであったが、用が終わったのか、荒れ始めていた。前方に送電線が通過する手前のピークが庄司山であったが、単なる道路脇の切り通しの上の高まりにしかすぎなかった。この山には三角点はないので、藪をこいで山頂部を通過し、登頂ということにした。
 車に戻って、これも車道脇の倉下山に向かった。今度は、県道なので、車の走行には問題はなかった。思ったよりも立派な車道が続いていたが、なだらかな稜線沿いの道で、現在地が判りにくかった。一回、場所を誤って、路肩の小高い所を覗いたが、当然三角点は見つからなかった。地図を見返しながら車を進めると、小高いピークが現れ、地図にもある林道が東に向かって分かれていた。
 倉下山の西面はかなり急斜面であったので、林道を進んで、東面からアプローチしてみることにした。山頂から尾根が道路の高さまで下ってきた所で、尾根の上に乗った。尾根沿いには、ケーブルが埋設してあり、山道が続いていた。おかげで、藪を漕ぐこともなく、ひと登りで倉下山の山頂に立つことができた。山頂には、アンテナが立ち、その配電施設には「アマチュア無線レピーターシステムJPOYCX 倉下山レピータークラブ」と書かれていた。刈羽黒姫山が夕焼けに染まっていた。
 土曜日は、早起きして山に向かった。まずは、二等三角点ピークの権現山をめざした。R.253の十日町橋を渡ったところから小泉の集落に入った。権現山の北側には県道十日町川西線、南には別な林道が通過している。南の林道の方が山頂には近いようなので、小泉の集落から林道に入った。田圃脇から植林地の中へと、未舗装の林道が長く続いた。権現山の手前で、舗装道路とT字路で合わさった。
 山頂への取り付きを探しながら、北に向かって林道を進むと、僅か先で、山頂に向かう作業道がみつかった。この道を登っていくと、広場になった権現山の山頂に出た。石仏が並び、かたむいた石の祠が置かれていた。かたわらには、パイプ組の展望台が設けられていたが、パイプの留め金がはずれているところもあり、危なそうなので、登るのはやめた。山頂は、杉や雑木林で囲まれていたが、車に戻ると、関田山塊や苗場山方面の展望が開けていた。
 松代方面に向かうのに、来た道を戻るのも面白くなかったので、林道を北に向かって十日町川西線から室島に出た。その後のR.403は曲がりくねった道で、かえって遠回りになったかもしれない。
 段丘上にある犬伏の集落に上がって奥に進むと、城山への登山口の標識が立っていた。かたわらの空き地に車を停めて歩き出した。お墓の脇を抜けると杉の植林地の登りになり、ひと登りすると、ブナ林が広がるようになった。登山道は、落ち葉に覆われ、どこでも歩けるかわりに、方向を見定める必要があった。赤布が下がっており、それに従っての歩きになった。所々、土累の跡なのか、短いが急な斜面を登る所があった。山頂まで尾根通しの道かと思ったら、小さな沢の源頭部を渡って、少し北側の尾根に回り込んだ。どうやら、城跡の旧跡巡りを行っているような道であった。山頂は広場になって、苔むした石の祠が二基並んでいた。山頂は木立に囲まれていたが、その切れ間から残雪をまとった関田山塊を眺めることができた。
 車に戻り、松代に向かった。松代の町は、山間部にありながら、一般登山の対象になるような山はないために、これまで訪れたことがなかった。松代のシンボルともいえる城山は、山頂部のお城風の建造物で、すぐにそれと判った。車で山頂をめざした。広場を過ぎると、細い道になり、山頂手前のカーブ地点で、それ以上車を進めるのは諦めた。そこからは、ひと登りでお城風の建物の前に出た。頑張れば、ここまで車であがって来られそうではあるが、一般には、山頂下の広場から歩き出した方がよさそうである。
 お城風の建造物は、展望台のようであったが、戸が閉まって入れなかった。山頂は広場になっていたが、木立に囲まれて眺めは良くなかった。展望台に戻って松代の町を見下ろした。次に登る予定の蒲生城山も目で確かめることができた。
 蒲生城山は、村上の武田さんの情報に従って登ることになった。松代中学校の玄関前に車を置かせてもらった。グランドを左手に見ながら車道を進むと、松代町青年研修センターの建物の前に出て、その前から山の中腹に立つ送電線への道が始まっていた。鉄塔の下で、道は終わり、その後は杉林の中の歩きになった。山の斜面に突き当たり、稜線をうかがうと、少し左に回り込んだ方が、直登の距離は短くて済みそうであった。テープをつけながら、稜線を目指した。稜線にでると、かすかな踏み跡が続いていた。藪を掻き分けながら350mピークに近づくと、杉の植林地が左手の斜面に広がるようになった。植林地の境界部部は藪も少なく、少し歩きやすくなった。山頂手前で、二ヶ所の横堀が現れ、その急な斜面は枝を掴んでよじ登る必要があった。
 蒲生城山の山頂は、枯れ草が倒れこんだ小広場になっていたが、山頂標識や祠のようなものはなかった。松代城山と向かい合い、松代の集落を見下ろすことができた。
 再び藪を掻き分けながら、蒲生城山から下った。夏を思わせるように暑くなり、汗が流れるようになってきた。
 次は、鍋立山に向かった。結構標高があるにもかかわらず、この山の情報は見あたらなかった。地図を見ると、山頂まで波線が通じているので、登れるはずであった。
 R.403が大島に向かって峠越えをする所に、「峠」の集落があり、集落内を抜けて北に向かう林道に進んだ。地図で小豆峠と書かれた分岐を過ぎた先で、道幅が狭くなったので、歩くことにした。実際には、少し注意すれば車の走行に差し支えない状態ではあったのだが、先の状態の判らない道に車を乗り入れるのは好きではない。
 鍋立山の西の肩に向かって林道が分かれると、尾根通しに少し進んだところから、しっかりした山道が始まっていた。鍋立山の山頂へは、急な登りになった。山頂直下は伐採地になっており、そこからはひと登りで鍋立山の山頂に到着した。鍋立山の狭い山頂からは周囲の展望が開けていた。今日の朝から登ってきた山で眺めてきた関田山塊に加えて、刈羽黒姫山、尾神岳、兜巾山を眺めることができるようになり、次第に日本海側に近づいてきたことが判った。山頂には、黒い御影石に、「忘るまじ 睦みし友と峠校 名残に登る鍋立の山」と彫られた記念碑が置かれていた。この山は、地元では、ふるさとの山として親しまれているようである。
 六夜山は、ホームページ「百山百色」における保坂さんの情報に従い、R.403の細野上バス停を過ぎたところで右折して、山に向かう道に入った。集落を過ぎて、稜線部に走る道路に合流する手前で、工事のため通行止めの看板があり、柵が置かれていた。柵の脇を通り抜けることはできそうであったが、通行止めとあるので、歩くことにした。工事は土曜日で休みなのか、作業員の姿は見あたらなかった。二車線幅の道路ができるようであったが、工事中とあって、砂利道が続いた。先方に見えるピークが六夜山のようであったが、一旦東の肩まで回り込む必要があり、長く感じられる車道歩きが続いた。東の肩の峠部から、山頂に向かって、林道が分かれていた。植林地の中を抜けていくと、六夜山の山頂に到着した。山頂は、桜の木が植えられ、木の祠が置かれていた。
 山頂からは、南に向かって、道が続いていた。歩いてきた車道に出ることは間違いはなさそうなので、この道を下ってみることにした。階段状に整備された道を下っていくと、桜の植えられた広場にでた。左に向かうと田圃の脇に出て、その先のあぜ道を伝って、車道に戻ることができた。この下りに使った道は、入り口に標識などは無いために、登りに使うことは難しそうである。
 続いて霧ヶ岳に向かった。この山も保坂さんの記録を参考にした。三叉路手前から坊金の大杉の標識に従って右折し、山に向かった。林道のT字路に出て、地図とは様子が違っているためにそのまま直進すると、細く急な道に変わって、坊金の大杉に到着した。坊金の大杉は、先が数本に分かれた、幹周り3m程の大木であったが、観光で訪れるためには、道が悪い。
 来た道を戻りT字路から東に向かった。舗装された良い道に変わると、峠部分に到着した。峠からは、霧ヶ岳方向に未舗装の林道が分かれていたので、ここから歩き出すことにした。少し歩くと、林道は右手の棚田に向かって下っていき、このカーブ地点から尾根に取り付いた。尾根の上には踏み跡があり、所々テープも残されていた。杉林を抜けると、雑木林が広がるようになった。薄暗い木立の下には、チゴユリが一面に咲いていた。最後に急坂を登り詰めると、霧ヶ岳の山頂に到着した。
 霧ヶ岳の山頂は、台地状で、刈り払われた広場になっていた。周囲の展望は、木立に妨げられていた。
 下りは尾根通しで、尾根の合流点の一ヶ所だけ注意すれば、それほど問題はなかった。
 霧ヶ岳に続いて、R.403を少し先に進んだところにある直峰城跡に向かった。案内標識に従って、山頂方向に向かうと、広い駐車場に到着した。トイレや案内標識も設けられ、遊歩道が整備されていた。周遊できるようなので、まずは左の道に進んだ。階段状に整備された道は、足に堪えた。低山巡りといっても、朝から八山目ともなると、それなりに疲れてくるものである。
 大きくカーブを描きながら登っていくと、山頂に到着した。山頂は大きな広場になっており、石碑や直峰城跡と彫り込まれた標石が置かれていた。周囲の展望は開けており、米山、尾神岳、兜巾山、霧ヶ岳を眺めることができた。ところで、この直峰城跡は、なんと呼ぶのだろうと思っていたのだが、「のうみねじょうせき」とフリガナが付けてあった。下りは、尾根コースを辿ることにした。昔の武将の屋敷跡を辿っていくと、駐車場に戻ることができた。
 予め用意しておいた山のリストには全て登ることができたので、家に戻ることにした。付近には、まだ多くのピークが残されており、いずれ機会をみて訪れる必要がある。


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