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矢筈岳


【日時】 2001年4月28日(土)〜30日(日) 2泊3日(テント泊)
【メンバー】 L 石倉卓、SL 小滝民夫、田村功、小島浩、渡部陽子、岡本明
【天候】 28日 快晴、29日 快晴、30日 曇り後晴

【山域】 川内山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 魚止山・うおどめやま・1078.6m・三等三角点・新潟県
 矢筈岳・やはずだけ・1257.5m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/御神楽岳/室谷
【ガイド】 LATERNE 3巻、5巻、6巻

【温泉】 御神楽温泉みかぐら荘 500円

【時間記録】
4月28日(土) 4:30=(R.49、上川 経由)=7:05 倉谷林道入り口〜7:30 発―8:33 林道終点―12:08 魚止山〜12:42 発―13:04 1120mピーク〜15:10 1066mピーク (テント泊)
4月29日(日) 5:55 1066mピーク発―6:12 1020mピーク―8:50 前矢筈岳〜8:58 発―9:29 矢筈岳〜10:00 発―10:27 前矢筈岳―12:18 1020mピーク〜12:30 発―12:52 1066mピーク〜14:13 発―16:00 1120mピーク (テント泊)
4月30日(月) 6:40 1120mピーク発―6:56 魚止山―8:58 林道終点〜9:24 発―10:27 倉谷林道入り口=(御神楽温泉入浴後往路を戻る)=15:00 新潟着

 矢筈岳は、川内山塊第二の標高の山である。最高峰は粟ヶ岳であるが、新潟平野の縁に位置し、登山道も整備されて、一般登山の山として親しまれている。奥深く、藪に閉ざされ、スラブの壁を切り立たせた谷によって囲まれた、川内山塊のイメージとしては、矢筈岳こそが川内山塊の盟主といってよいであろう。下越方面の岳人で、一般登山の山から一歩踏み込んで道の無い山をめざすものにとって、矢筈岳は憧憬の山になっている。

 昨年の五月の連休時に、峡彩ランタン会では、石倉さんをリーダーとして、田村さん他が、魚止山経由で矢筈岳を目指した。2泊3日の計画であったが、二日目は雷の鳴る悪天候になり魚止山付近で停滞となった。晴天に恵まれた三日目、矢筈岳を目指したものの、前矢筈岳直下で時間切れとなり、石倉さんと渡部陽子さんは前矢筈岳まで登ったものの、中退という結果になった。私は、同時に行われた「飯豊連峰くさいぐら尾根」山行に参加したため、この矢筈岳山行には行きたかったのだが、加われなかった。昨年の中退を受けて、今年は再度矢筈岳山行が行われるかなとひそかに期待していたところ、昨年同様、石倉さんをリーダーとして矢筈岳をめざすというので、パーティーに加えてもらうことにした。

 私にとって川内山塊の山は、標高は低くともスラブに取り囲まれて険しく、安易には取り付けない山というイメージがある。個人的レベルでは難しい山ではあるが、峡彩ランタン会には、この山域に精通した佐藤一正さんもおり、また上村さんをはじめ、多くの会員が足跡を残して、記録が蓄積されている。二週前の会山行の大戸沢山で眼前に眺めた矢筈岳の姿に誘われるままに、体力、技術面で不安を抱きながらも、矢筈岳山行に参加することになった。

 矢筈岳を目指すには、幾つかのルートが考えられる。木六山あるいは毛石山から青里岳を経由するコース。笠掘ダムからのコース。倉谷山から駒形山を経てのコース。それに今回の魚止山経由のコースである。今回は、昨年と同様の魚止山経由で、1泊の予定で行うことになった。といっても、予備日1日を設定して、登頂のために万全を期すことにした。

 朝6時に、草水のコインスナックリバーサイドの駐車場に集合。小島さんと小滝さんの車に便乗して、室谷に向かった。北京の学会から戻って、中一日の山行のために、体調に少々不安を覚えながらの出発であった。

 林道の除雪がどこまで進んでいるかで、林道歩きの時間が大きく変わってくる。室谷集落手前の山菜採りの料金徴収のゲートには人はおらず、無事に通過できた。山菜採りからの料金徴収であるため、林道の除雪は、まだ進んでいないようである。二週間前に訪れた室谷のかやぶきの里駐車場の雪はすっかり消え、雪消えは急速に進行していた。峰越林道から分かれる倉谷林道に少し入ったところで、残雪のために通行不能になっていた。デブリの手前には車が三台おかれていた。先行の登山者のものか、魚釣りのものであろうか。車を路肩にとめて、出発の準備をした。

 林道を歩き出すと、前方の谷の奥には、太郎山がいかつい山頂をみせていた。谷の周囲の山肌から雪はすっかり落ちて、黒々とした岩肌を見せていた。泊まりの装備は重く、所々に残るデブリを越えていく道は、結構遠かった。快晴の日になって気温は高く、早くも汗が噴き出てきた。1時間程歩き、登り口手前の魚止沢橋でひと休みした。

 魚止山への尾根の取り付きは、林道の終点部からになる。林道の到達点は地図に記載されているとおりであった。藪に覆われた林道を進んで尾根を回り込むと、右手の高みに向かって踏み跡が続いていた。予想外にはっきりした踏み跡であった。

 杉林の広がる404m小ピークを越すと、ブナ林の間を残雪が埋めた斜面が広がっていた。尾根に乗ると、雪は消えて再び土の上を歩くようになった。急登が続くため、尾根に踏み跡が続いているのが有難かった。かなり登ったと思っても、眼下の林道はなかなか遠ざからなかったが、それでも足を前に出し続けていくと、御神楽岳や日尊ノ倉岳の眺めが広がってきた。いつしか、残雪歩きが続くようになった。雪はほどほどに柔らかくて歩きやすく、途中の急な所もも、キックステップも入りやすくて通過は問題はなかった。

 最後に雪の落ちた痩せ尾根を登ると、魚止山の頂上に到着した。矢筈岳に登ることができるかどうか不安があったので、まずは一つのピークに登ることができて少し気が楽になった。魚止山の山頂からは、矢筈岳が姿を現した。半月前の大戸沢山の山頂からは、矢筈岳はピラミッドの山頂を見せていたが、魚止山からは横に広がった双耳峰の形を見せていた。矢筈岳の山頂を目の前にしたといっても、まだまだかなりの距離があった。

 休んでいると、二人連れが空身で登ってきた。言葉を交わすと、矢筈岳偵察とのことであった。魚止山の前には、1120mピークがピラミッド型の堂々とした姿を見せていた。無名峰なのが不思議に思われるピークであった。青里山や五剣谷岳、駒形山といった、川内山塊深部の山も眺めることができ、この魚止山だけでも、日帰りの山として十分なピークであった。太郎山への稜線を覗くと、雪は落ちて、黒々とした藪が続いていた。

 魚止山から先は、踏み跡はあるものの、潅木の枝がうるさくなった。雪堤を使える所も少しはあったが、すぐに稜線に追い返され、その度に灌木の枝を掴んで体を持ち上げる必要があり、体力を消耗することになった。1055mピークを越すと、小さいながらも切り立った岩峰が現れた。二段に分かれており、下段は、左に傾斜した岩場であったが、岩の表面に細かく凹凸ができており、靴底のフリクションを利かせで登ることができた。その上で、男女の4名グループが休んでいた。このグループも矢筈岳の様子見とのことであったが、その先の岩場が登れないので引き返すようであった。上段の岩場は、傾斜はかなりあった。岩角は浮石となって頼りにならず、木の枝を頼りによじ登る必要があった。石倉さんが最初に登ってロープを垂らし、一人ずつ慎重に登った。

 小ピークの乗り越しで体力を消耗し、テント場を探しながらの歩きになった。結局、1066mピークの上に残雪の広場があり、ここで幕営することになった。ここまでくれば、明日の矢筈岳登頂は確実に思われた。幕営地を整備して、テントを設営した。夕食は一品持ち寄りであったが、皆十分過ぎる食料を持ってきており、この晩には余る程であった。もっとも、これが後に幸いすることになるのだが。

 二日目は、テントはそのままにして、軽装で矢筈岳に向かった。いよいよ矢筈岳の山頂に立つと思えば、気持ちは昂揚した。重荷が無くなって足は軽くなったとはいえ、両手で枝を掻き分けて進む手ごわい藪が続いた。次の1020mピークで駒形山からの稜線が合わさり、コースは北に向きを変えた。次の1049mで再びコースは西に。コースは細かく方向を変え、なかなか矢筈岳が近づいてこない。1049mからは、急な下りになった。幸い、踏み跡があり、潅木の枝を掴んで下ることができた。下りきった鞍部は、緑色を帯びた岩が露出した岩稜になっていた。藪から久しぶりに開放されて、矢筈岳を眺めながら、岩の上でひと休みした。快晴となって気温が上がり、谷風が心地よかった。

 1040mピークに登ると、ようやく前矢筈岳が目の前に迫ってきた。雪堤が続き、スピードも少し上がった。前矢筈岳に向かっては、標高差100m程に及ぶ雪の急斜面が続き、アイゼンを付ける必要があった。途中に現れた島状の藪の脇を通過するあたりが、特に傾斜はきつくなった。慎重に足場を固めながら登り続けた。辛い登りであったが、ここさえ登りきれば、憧れの山頂の一角に立つことができる。白い雪原を見つめながら足を運び、目の前に青空が広がったと思うと、前矢筈岳の上に到着した。

 前矢筈岳は、横に長い広がり、その先に矢筈岳が三角形の山頂を見せていた。この先には急斜面は無さそうであったため、アイゼンは外した。途中にある小ピークの雪は落ちていたが、その先は、山頂までなだらかな雪の斜面が続いていた。一歩一歩、感動を確かめるように足を運んだ。

 矢筈岳の山頂は、そこだけ雪が融けて、小広場になっていた。傾いた三角点が頭を出し、その脇に矢筈岳と書かれた新しい標柱が立てられていた。ビールを回し飲みして、登頂を祝った。田村さんは、70才で登頂とのことで、これは矢筈岳登頂の最高齢であろうか。私自身は、矢筈岳を目指したのはこれが最初であったのだが、再度の登頂となった石倉さんを除いて、皆、何度目かの挑戦の後の登頂とのことであった。

 青里岳は目の前にあり、その右後ろには、粟ヶ岳が大きな姿を見せていた。山頂の周囲には、幾重にも川内山塊の山並みが取り巻いていた。川内山塊の盟主に相応しく、人里から離れ、山々に囲まれた山頂であった。暖かい太陽に包まれ、そのままいつまでも眺めを楽しんでいたい山頂であった。しかし、下山のためには、そう長居はできなかった。矢筈岳の山頂に少し心を残しておこう、いつの日か、再び訪れて、この眺めを楽しもう。青里岳への稜線も気持ちが良さそうだ。

 下りは、雪の付き方が判って、小ピークを巻きことができ、少し楽をすることができた。前矢筈岳に戻って、再びアイゼンを付けた。矢筈岳の山頂に別れを告げ、急斜面に足を踏み出した。この急斜面では、滑落したとすると、停止できる自信はない。ピッケルの確保に注意しながら、一歩ずつ慎重に足を運んだ。登り以上に緊張して、壁の下まで下りた時には、喉がからからになっていた。

 テン場までの戻りは、長く感じた。気温が上がり、雪の上にいると、照り返しで暑く感じるようになった。1リットル持ってきた水も飲み干し、雪をかじるようになった。緑岩の上でひと休みした後に、1066mピークへ向かっての登りに汗を流した。

 テントに戻って、昨晩作ってデポしておいた水を飲んでひと息いれた。ゆっくりと昼食をとった。急ぐ気持ちはあったのだが、休まないことには足が動かないようになっていた。この日のうちに下山できるかどうか微妙なところであった。日没も遅くなっており、時間的にはぎりぎりのところか。しかし、魚止山まで戻ってから下山できるだけの体力については少々疑問であった。ともあれ、魚止山まで戻ってから考えるということで、テントを撤収して歩きだした。

 重いザックを背負うと、足は進みづらくなった。途中の岩場も、慎重に下って無事に通過。途中にある小さなピークを越すたびに、体力は確実に消耗していった。気が付くと、小島さんが遅れていた。私自身の足の運びも怪しくなって、ともすれば、枝に押し戻されるようになった。

 1120mピーク手前で4時近くになり、下山は翌日ということになった。1120mピークまで上がってテントを張った。食料も燃料も余裕があり、一晩の延長には問題は無かった。小島さんは、かなり疲れてしまったのか、夕方から寝続けていた。天気予報では晩から崩れるとのことではあったが、雨が少しぱらついただけで、大きな崩れはなかった。

 曇り空の朝となり、矢筈岳も谷越に見えていた。ゆっくりと朝食を取り、後は山を下って温泉をめざすだけ。魚止山に戻り、矢筈岳に別れを告げた。朝で雪はしまっており、急な所では、バックステップで慎重に下らなければならにところもあった。下るに連れて、木々の緑が目にしみるようになってきた。緊張も和らぎ、コシアブラを探しならの歩きになった。ひと晩休んだとはいっても、林道に下り立った時には、かなり足にきていた。前日の下りは、敢行したならば、かなり辛いものになり、体へのダメージも大きくなったであろう。連休後半の山行のことを考えれば、無理をしなくて正解というところか。

 帰りは、下り坂とはいえ、長く感じられる林道歩きであった。ブルが入って、林道の除雪区間が少し延びていた。車に戻ると、小島さんの車にメモがあり、岩城さんからのビールの差し入れが路肩の雪の中に埋めてあった。有り難く、山行の終了を祝って乾杯をさせてもらった。昼間の温泉につかって三日間の汗を流し、のんびりした気分になってから家路についた。

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