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越後駒ヶ岳から荒沢岳縦走


【日時】 10月7日(土)〜9日(月) 2泊3日
【メンバー】  宇都宮ハイキングクラブ自主ハイク(L室井武雄、白石晃他)合計12名
【天候】 7日:晴 8日:晴 9日:雨のち曇り

【山域】 越後三山
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
越後駒ヶ岳・えちごこまがたけ・2002.7m・一等三角点補点・新潟県
中ノ岳・なかのだけ・2085.2m・三等三角点・新潟県
小兎岳・こうさぎだけ・1858m・なし・新潟県
兎岳・うさぎだけ・1925.8m・三等三角点・新潟県
卷倉山・まきくらやま・1758m・なし・・新潟県
源蔵山・げんぞうやま・1830m・なし・新潟県
灰ノ又山・はいのまたやま・1852.3m・三等三角点・新潟県
灰吹山・はいふきやま・1799m・なし・新潟県
荒沢岳・あらさわだけ・1968.7m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/八海山/奧只見湖、八海山、兎岳、平ヶ岳
【ガイド】 ラテルネ5号p.447〜453、越後の山旅(富士波出版)、山と高原地図「越後三山、卷機山、守門岳」

【時間記録】
10月7日(土) 6:00 新潟発=(関越道、小出IC、R.352、奧只見シルバーライン 経由)=8:10 荒沢岳登山口〜9:35 発=(R.352)=9:50 枝折峠〜10:12 発―10:48 銀の道分岐―10:49 明神峠〜10:55 発―10:57 明神峠ピーク―11:47 道行山―(12:18〜12:47 昼食)―13:05 小倉山〜13:12 発―14:03 百草の池〜14:10 発―15:25 駒の小屋〜15:43 発―15:54 越後駒ヶ岳〜16:15 発―16:20 駒の小屋 (テント泊)
10月8日(日) 6:00 駒の小屋発―6:31 グシガハナ分岐―7:15 天狗平―10:24 中ノ岳〜10:35 発―10:48 池の段―12:22 小兎岳〜13:04 発―13:27 兎岳〜13:37 発―15:35 卷倉山―16:01 卷倉・源蔵鞍部 (テント伯)
10月9日(月) 6:30 卷倉・源蔵鞍部発―7:46 源蔵山―8:10 源蔵・灰ノ又鞍部〜8:20 発―9:25 灰ノ又山〜9:30 発―12:40 灰吹山〜12:50 発―15:37 荒沢岳〜15:51 発―17:10 前ぐら―17:55 前ぐら下の尾根末端―20:00 石抱橋分岐―20:40 荒沢岳登山口=(往路を戻る)=0:10 新潟着

 八海山、越後駒ヶ岳、中ノ岳からなる越後三山は、北は未丈ヶ岳を経て毛猛山塊、南は卷機山を経て谷川連峰に接している。西にはずれる八海山を別にして、枝折峠から越後駒ヶ岳、中ノ岳、兎岳を経て大水上山に至る南北に連なる稜線は、只見川と信濃川の分水嶺となり、それより南の大水上山から丹後山、越後沢山、下津川山を経て卷機山に至る稜線は、信濃川と利根川との分水嶺になっている。新潟、福島、群馬の県境は、これらの分水嶺にほぼ一致しているが、電源開発で新潟県に関係の深い奥只見ダムを新潟県に含めるためかのように、新潟県境は、只見川源流部に大きく張り出して尾瀬ヶ原に達している。このような変則的な県境線のおかげで、越後三山は、まるまる新潟県の山となり、荒沢岳や平ヶ岳といった只見川源流部の山も新潟県の山に含まれるようになっている。
 越後駒ヶ岳から中ノ岳を経て丹後山までの縦走路には、一般登山道が整備されて、健脚向けのコースとして親しまれている。その中間の兎岳からは、灰ノ又山を経て荒沢岳に至る稜線が東に延びて、北ノ又川の源流部を半円状に取りまいている。この兎岳から荒沢岳への縦走路は、昭和三十七年に伐採されたが、通る者が少ないために薮に帰り、少し前の登山地図には赤の破線で記されていたコースも、現在では抹消されている。

 9月に谷川連峰縦走を行った時に、室井さんから兎岳から荒沢岳縦走の計画を聞き、是非にと参加させてもらうことにした。92年10月5日に中ノ岳から丹後山へと日帰りで歩いた時に、兎岳から東に続く尾根を見て、いつか歩いてみたいと思った覚えがある。荒沢山には、一週おいた92年10月17日に登ったが、ここからは中ノ岳は手の届かぬ遠くに見えた。
 登山計画を聞くと、枝折峠から歩き出し、1泊目は駒ノ小屋。2日目は中ノ岳から兎岳に至り、卷倉山を越した鞍部で2泊目。3日目は、荒沢岳に抜けて銀山平に下山ということだった。水場に関しては、1日目は駒ノ小屋の水場で問題はなし。2日目の水場は、地形を見ると沢形が上がってきているので、沢に下りれば水を得ることができるということであった。心配な点は、登山道がどれ程残っているかという点と、荒沢岳からの下りに現れる難所の前ぐらの通過であった。室井さんに逆コースにしない理由を聞くと、縦走開始の重い荷物を背負って、鎖場の通過は大変ということであった。確かに、下りに使う方が簡単ではあるのだが。兎岳から荒沢岳の間を1日半で抜けることになるが、これは、昔の登山道の道形が少しは残っているという前提での話であった。
 峡彩ランタン会の会報を読み返してみると、ラテルネ5号に佐藤一正さんと小島宏さんの記録が載っているが、どうも登山道はほとんど消えているようであった。しかも、この山行は、7月始めの残雪が少しは使える時期であったのに対し、こちらは完全な薮漕ぎの覚悟が必要そうであった。
 宇都宮からは、檜枝岐を経由してくるとのことで、銀山平の荒沢岳登山口で待ち合わせになった。快晴の日になり、シルバーラインに入ると、越後駒ヶ岳が美しいスカイラインを見せていた。荒沢岳の登山口は、すでに車で満杯であったため、少し戻った空き地に車を停めた。朝食をとり、車を乗り換える準備を終えて、さてひと眠りでもと思ったら、予定よりも1時間早く宇都宮一行が到着した。今回は、総勢12名の大所帯ということで、2台のワゴン車でやってきた。さっそく、私の車を置いて乗り込み、枝折峠に向かった。
 R.352の枝折峠付近は、午前中は小出から峠、午後は逆方向への一方通行ということになっているが、実際には逆走の車も多い。銀山平から枝折峠へは、距離はそう長くはなく、現在では道幅は広くて車のすれ違いにもそう問題はなないことから、行き会う車優先ということで、通らせてもらうことにした。
 枝折峠は、91年10月26日の越後駒ヶ岳以来ということになる。昔はどこが登山口か判らない鄙びた峠であったが、様変わりして駐車スペースはずいぶんと広くなっていた。快晴の連休とあって、すでに満車状態で路肩駐車の列ができていた。うまくスペースを見つけて車を置くことができた。出発の準備をしている間にも、登山者を載せたタクシーが到着した。
 荒沢岳を眺めながら歩きだした。荒沢岳は目の前であったが、そこへの縦走路の入口となる兎岳は、まだ遥か彼方であった。
 3日分の食糧を詰め込んだザックは重く、歩き出しから、Tシャツ一枚になった。一日目は駒ヶ岳までということで、のんびりした歩きになった。明神峠(三角点ピークには明神峠という標識が立っているが、その手前の駒ノ湯へと下る銀の道との分岐が正しくは峠であろう。)、道行山、小倉山へと続く稜線はだらだらと長く、青空のもとに浮かぶ越後駒ヶ岳はなかなか近づいてこなかった。小倉山手前で昼食。越後駒ヶ岳は、先月も登ったばかりで、この先の道は記憶も新しい。緊張感を欠いて、ついビールに手が出てしまった。晴天の山で飲むビールは、このうえない美味しさであったが、その報いは足にきた。下山の登山者にも多く出合うようになり、言葉を交わすと、駒の小屋は大混雑のようであった。百草の池を過ぎ、前駒への急登にかかる頃には、ようやく酔いも醒め、足どりも本調子になった。高度が上がるにつれて、紅葉が広がるようになった。今年の紅葉は少し遅れているようであったが、稜線部は盛りのようで、期待が膨らんだ。
 駒の小屋手前で、長靴に二本ストックという独特のスタイルで急坂を駆け下りてきた皆川さんに出合うことができた。いつものように、小屋に荷物を運びに来たとのことであった。荒沢岳へ縦走するというと、登山道は完全に薮になっているとのことであった。途中で1泊するというと、それならなんとかなるかなという返事であった。
 駒の小屋では、広場の一段下にテントを張って、小屋に入りきれない登山者を収容する準備に大忙しであった。広場では、休憩する登山者で混雑していたが、片隅にテントを張ることができた。二張りのテントを張って場所を確保した所で、駒ヶ岳の山頂に向かった。山頂下の残雪も消えて、草紅葉が広がっていた。
 越後駒ヶ岳の山頂は、それぞれコースを変えて、これが4回目になった。ようやく、快晴の山頂に巡り会うことができた。夕暮れの日に照らされて、稜線部は紅葉の赤や黄色に染まり、中ノ岳がボリューム感のある山頂を見せていた。目の前には、八海山が大きく、八峰の岩稜も良く見分けることができた。荒沢岳は、遠ざかりも近づきもせず、相変わらず、左右に肩をいからせた険しい姿を見せていた。権現堂山塊、毛猛山塊、遠く飯豊連峰に吾妻連峰。平ヶ岳と燧ヶ岳は近く、日光白根山も遠くに見分けることができた。卷機山から谷川連峰、妙高連峰。素晴らしい展望であった。
 テントに戻り、まずは水汲みに出かけた。夏の水源の雪渓も消えて、小屋の前までは水はきていなかった。足元に注意しながら小屋の横の急坂を下ると、沢には細く水が流れていた。集めてきたペットボトルに水を汲む間に、手が冷たくなって痛くなった。テントの中で夕食から宴会を行ったが、周囲が早々と静かになってしまったため、こちらも眠りにつくことになった。
 翌朝は、暗いうちに起き出して、朝食の準備を始めた。外では、小屋泊まりの人達が朝食の準備を進めていたが、気温も下がっており、寒そうであった。日の出に東の空が赤く染まった。すっかり明るくなったところで、テントの撤収を終えて、歩き出した。
 稜線に上ると、一番最初の目的地の中ノ岳が朝日に輝いていた。緩やかに下っていくと、グシガハナとの分岐に出た。鋭角的な山頂を持つグシガハナが目の前に聳えていた。大きく下って傾斜が緩むと天狗平に到着した。思わず足を止めてカメラを取り出すような美しい紅葉が広がっていた。この先は、小さなピークが連続する痩せ尾根が続き、歩き始めというのに、汗を絞らされることになった。
 登山を初めた年の秋に越後駒ヶ岳に登った時の事であるが、枝折峠から駒ヶ岳の山頂までは、大幅にコースタイムを短縮して歩くことができ、このペースならば中ノ岳まで日帰りで往復できると思って、前進を続けた。しかし、小さなアップダウンと、足が地面につかない檜廊下の通過ですっかり体力を消耗してしまい、中ノ岳への最後の登りにかかる手前で引き返すという失敗をしたことがある。その時の記憶では、檜廊下は、木の根の上を伝い歩く距離が長かったように覚えがあるのだが、崖際に登山道が付け替えられたのか、そう苦労無しに通過することができた。
 越後駒ヶ岳からかなりの体力を使った末に、ようやく中ノ岳への最後の登りが始まった。10年前に無念の退却をした区間をようやく繋げることができる嬉しさ。
 傾斜が緩むと避難小屋の前に出て、中ノ岳の山頂は、緩やかな登りを続けた少し先であった。山頂一帯は、登山者で賑わっていた。中ノ岳は、越後三山最高峰としてこのピークだけを目標にする登山者もいるし、三山駈け、あるいは、北の駒ヶ岳あるいは南の丹後山への縦走路の中心地にもなっている。
 あいかわらず、周囲には良い展望が広がっていた。振り返ると、越後駒ヶ岳は、紅葉に彩られて一段低く見えていた。ようやく兎岳を眼前の目標として捕らえることができるようになった。兎岳は、丹後山から中ノ岳への縦走路の通過点として登られるばかりであるが、どっしりとした山容は立派である。混み合った中ノ岳山頂を後にして、兎岳へ向かった。
 中ノ岳からは、急な下りになり、振り返ると岩壁と紅葉の取り合わせが美しかった。小兎山との鞍部までは、350mの一気の下りになる。兎岳へは、200mの登りになるが、小兎岳の他にも小ピークがあって、さらに標高差は増えることになる。なかなかハードで歩き甲斐のある縦走路である。
 昼食は兎岳でという予定であったが、結局小兎岳を越したところで昼の大休止になった。目の前には、兎岳から荒沢岳に至る稜線が緩やかに長く続いていた。笹原に腰をおろし、風景を楽しみながら腹ごしらえをした。
 兎岳の山頂手前で、東の稜線に踏み跡が続いていた。これが、荒沢岳への登山道であったが、まずは、兎岳の山頂を踏んでおくことにした。兎岳の山頂には、丹後山から中ノ岳に向かう登山者も休んでいた。薮漕ぎの開始ということで、スパッツを付けることにした。
 いよいよ、荒沢岳への縦走開始。背の低い笹原を気持ち良く下った。振り返ると、登山者が、こちらに向かって下りてこようとしていたので、大声で、中ノ岳はあっちと教えた。踏み跡は明瞭だし、まさか荒沢岳に向かうものがいるとは思わないだろうから、ついてきそうになるのも無理はないのだが。
 踏み跡は明瞭で、兎岳の山頂が、みるみる遠ざかっていった。小ピークとの鞍部で薮にはまったが、それも僅かな区間で、背の低い灌木の痩せ尾根の歩きになった。これなら楽勝と、気も楽になった。右手には紅葉に彩られた中ノ岐川の谷間が広がり、その向こうには平ヶ岳が大きく広がっていた。次は、大水上山から平ヶ岳という声も上がった。天気は次第に下り坂になって、冷たい風が吹きはじめるようになった。薮漕ぎといっても、そうたいした苦労もなく、卷倉山の頂上に達することができた。今日の泊まり場の予定の源蔵山との鞍部には、草原が広がっているのを見下ろすことができた。振り返ると、兎岳は大きく、中の岳は、秋になっても残雪に埋まる谷を刻んだどうどうたる姿を見せていた。
 卷倉山の先は、所々背を越えるネマガリダケの薮が現れたものの、そう問題なく下ることができた。薮をかき分けていくと、突然という感じで、枯れ草色に染まった草原に飛び出した。小さな池塘もあったが、これは干上がりかけて泥水が溜まっているだけであった。この草原にテントを張ることにした。
 稜線の南からは岩魚止沢が上がってきており、卷倉山のなだらかな山腹には沢形が刻みこまれていた。草原の下部を覗き込むと、数メートルの薮漕ぎで、なだらかな斜面の広がる谷間の草付きに下り立つことができることが判った。テントの設営を終えてから、皆で、水を捜しに行くことになった。草付きから沢に下りると、幅2m程の涸れ沢が続いていた。水を求めて、緩やかに蛇行する沢を下っていくと、二、三十メートル先で、沢の中で水が湧き出ていた。沢幅からすると、早い時期には豊富な流れがあるのだが、水量が少なくなった秋には、伏流水がこの地点で湧き水として現れているもののようであった。片道十分程の近さであり、縦走中の水場として利用価値は高いものと思われる。さっそく汲んで飲んだ水は、冷たく美味しかった。
 水の心配が消えて、おちついて夕食にとりかかることができた。薮漕ぎ縦走途中の幕営は、周囲の登山者に気をつかう必要もなく、飲むほどに歌も出て大騒ぎ。それでも九時前に眠りに就くと、薮に包囲された草地は静まりかえった。
 夕暮れ時からガスが流れはじめていたが、夜中から風が強まり、明け方からは小雨がぱらつき始めた。薮漕ぎ本番の日の天候としては、あまり歓迎できる状態では無かった。暗いうちに起きて朝食の準備を始めたが、雨雲のためになかなか明るくならず、出発は予定よりも30分ほど遅れ、雨具の上下を着込んでの出発になった。ここまでの薮漕ぎが予想外に楽であったために、油断があったのかもしれない。これまでの山行の中で、一番長い日の始まりになった。
 ガスが流れて、見えるのは源蔵山の山頂まで。コンパスを合わせて、慎重に歩く必要があった。かすかな踏み跡を辿って歩き始めた。踏み跡は笹原を結んで続いているようであったが、直に見失ってしまった。踏み跡はトラバース気味に登っていくように見えたが、薮漕ぎでは歩き難いため源倉山の山頂をめざすことになった。猛烈な薮で、体力をえらく使う登りになった。1時間以上もかかって登り着いた源蔵山の山頂は、薮に覆われて踏み跡は見あたらなかった。北西尾根に入りかけて、コンパスに従って正しい方向に下ると、再び踏み跡が現れた。どうも旧登山道は、源蔵山の南の肩を巻いたようであったが、踏み跡も消えている状態では、山頂を越すしかないであろう。鞍部に下ると、草原と小さな池塘が現れた。登山地図には、池塘多くキャンプ可とあるが、登山道脇の池塘は一つしかなく、その水は、濁って煮沸しても飲む気にはなれそうも無かった。昨日の水場の発見は幸運であった。
 草原でひと休みした後、灰の又山に向かっての薮漕ぎが再び始まった。踏み跡を見つけては、見失ってはなるものかと懸命に辿っても、直に薮に突入ということの繰り返しであった。登りは、遅々として進まず、次第に時間が気になるようになってきた。幸い雨は上がり、紅葉に彩られた谷間も目に入ってくるようになった。
 灰の又山の山頂には、立派な山頂標柱が立っており、その傍らには三角点が頭をのぞかせていた。結構新しそうな標柱となので、登山道伐開後も、整備の手が加えられたことがあったようである。ただ、山頂標識はぐらついた状態なので、そのうち倒れて失われてしまうかもしれない。
 灰の又山の北東斜面は、紅葉が美しい緩やかな台地が広がっていた。しかし歩くとなると、方向が大きく変わり、目印も乏しく、コースを決めるのが難しかった。小さなピークを乗り越していると、ガスが上がって、荒沢岳の山頂が姿を現した。まだまだ遠くにあった。とりあえずの目標は、丸く盛り上がった灰吹山であった。踏み跡は、概ね右手の中ノ岐川沿いの斜面の笹原の稜線から僅かに下がった所をトラバースするように続いていた。しかし、踏み跡を辿っていると、笹の下の地面が抉られて無くなっているところがあり、足を滑らして滑落しそうになった。危なそうな所では稜線通しに歩く必要があったが、稜線通しはシャクナゲなどの濃い薮で歩くのに苦労した。灰吹山への登りは急斜面で、足場の悪い斜面を木の枝を頼りに這いあがるような所も現れた。
 灰吹山に登ると、ようやく荒沢岳を眼前に捕らえることができた。「明神峠から見た荒沢岳は肩幅高く怒らして四肢に至るまで筋肉隆々と盛り上げた仁像とすると、(灰ノ又山からは)まるで観音様が湯上がりにくつろいだような女人像に見える。」と、「越後の山旅」に書かれている。この例えは良いのかどうかは好みの問題もあろうが、確かに女性的なすっきりとした三角形の山頂の美しい姿を見せていた。微笑みを浮かべるも、一歩対処を誤れば身の破滅を招きそうな危うき美女とでも言おうか。
 ここまで薮を突破してきたことを思えば、残りの距離も僅かになって荒沢岳まで踏破できることは確かである。しかし、時間との勝負になってきた。荒沢岳からの下山には、3時間以上かかる。後半の尾根歩きは懐電歩きで良いにしても、明るいうちに前グラを越すことができなければ、ビバークするしかない。終始先頭で薮漕ぎを続ける白石さんにも疲れが見え始めていたが、それよりも、後続集団が遅れ気味になって、足を止めて待つ時間も増えてきた。とにかく、前進を続けるしかなかった。
 荒沢岳への登りにかかる頃、男一人、女二人のパーティーに出合い、驚かされた。時間にも追われ、相手も疲れているようで言葉はあまり交わさなかったが、丹後山で一泊、灰の又山の先で二泊目で、今日下山の予定とのことであった。途中の草原の踏み跡や泥の上の足跡は、このパーティーのもののようであった。薮の中で木の枝に赤いビニールテープが巻き付けられていたのも、このパーティーによるものだったのだろうか。源蔵山への登り付近だけに多く付けられており、しかも薮の中の目に付きにくい所にあって、あまり役には立たないような気がしたのだが。
 尾根も痩せてきて、稜線通しの薮漕ぎが続いた。荒沢岳の西肩の下の草原に出てひと息ついた。山頂までは、ようやく僅かな距離になった。出合ったグループが追いついてきたが、そのまま腰を下ろして休みに入ってしまい、後に残しての出発になった。山頂をめざしてトラバース気味に登っていくのかと思ったら、踏み跡は、一旦西の肩に上がってから方向を変えた。荒沢岳への登りは、痩せてはいたものの、通過が困難な岩場は現れなかった。頂上が近づくにつれて、踏み跡も明瞭になった。最後の力を振り絞っての登りであったが、ふと頭を上げると、僅か先の高みに荒沢岳の標柱が立っていた。
 せっかくの縦走コースからの到着であったが、ギャラリーもおらず、静まり返った荒沢岳の山頂であった。後続の仲間が到着するのを待つ間、縦走路を振り返った。夕暮れ時の淡い光の中に、兎岳に至る稜線は、ぼんやりと溶け込んでいた。猛烈な薮漕ぎは想像できないような紅葉に彩られた美しい稜線が続き、ただ、遠くから歩いてきたことが判るだけであった。
 荒沢岳の到着は3時30分にずれ込み、下山できるかどうかの瀬戸際になった。日暮れ前までには、前ぐらの鎖場はなにがなんでも通過する必要があった。ビバークの可能性も考えなけらばならなかった。ビバークになっても、もうひと晩過ごすに必要な水や食糧も持っており、天気も安定していて、その点では問題はなかった。しかし、山から帰らなければ、家の者が心配するだろうし、翌日は仕事が入っている。荒沢岳山頂で、携帯電話を家にかけてみると、うまく通じて、ビバークの可能性を告げることができた。ただ、リーダーの室井さんの宇都宮の家には、うまくつながらなかったのは不思議であった。万が一の場合の翌日の仕事の手配も頼んで、気分的には楽になった。持ち歩いて基本料金だけ払い続けていた携帯電話が、ようやく役にたった。
 休みもそこそこに荒沢岳からの下山に移った。岩稜を東に辿った後に、北に向かう痩せ尾根の一気の下りになった。難関の前ぐらは遥か下で、なかなか近づいてこなかった。振り返ると、荒沢岳は屏風のように岩壁を巡らせていた。
 前ぐらの鎖場下降点には、5時過ぎに到着。まだ明るさは残っていた。気の抜けない長い下降が始まった。鎖が連続し、時間や体力に余裕がある時でもいやな所である。疲れ切っており、思わぬミスを犯すのが恐かった。岩場のトラバースを交えながら下っていく登山道は、暗くなってからの通過は、とうてい無理であった。足がかりが少ない所もあり、泥付きで登山靴の底も汚れて滑りやすくなり、鎖に頼らざるを得なかったが、一日の薮漕ぎで腕にも力が入らなくなってきていた。冷や汗をかいて岩場の下部に下り立った時には、あたりはすっかり暗くなって、ヘッドランプを取り出す必要があった。ルートを示すために、先頭に立って、尾根上の登山道に這いあがった。振り返ると、暗闇の中に、ヘッドランプの明かりが、岩場の下に点々と続いていた。ぎりぎりの通過であったが、時間との競争には勝てたようである。
 前ぐらの鎖場の通過で安心してしまったが、その先もしばらくは鎖場が断続的に現れた。以前に登った時の記憶では、梯子が何カ所か現れたことは覚えているのだが、尾根の鎖場のことは忘れていた。昼間なら、そう難しい鎖場では無かったのかもしれない。闇の中をヘッドランプの明かりで下る鎖場は難しかった。
 ようやく、尾根歩きがはじまり、ひと安心。ビバークの必要はなくなった。しかし、この先の下りは長かった。ヘッドランプの明かりでは、足元が判らずに転びやすかったが、良く整備された登山道に助けられて下山を続けることができた。遠くに見えていた明かりが近づき、沢音が登山道の脇に聞こえるようになると、ようやく荒沢岳登山口に到着した。
 疲れのために動作もにぶり、着替えにも手間取った。ドライバー二人を枝折峠まで運んで車の回収を行い、再び銀山平に戻って一同とお別れし、シルバーライン経由で家路についた。
 歩行時間14時間は、これまでの最長記録である。懐電による下山というのも初めてであった。10年目のゴアの雨具のズボンとスパッツは引きちぎれてゴミ箱行きとなった。ともあれ、室井さんの的確なコース判断と、終始薮漕ぎトップを努めた白石さんのお陰で無事に縦走を終えることができた。

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