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米山


【日時】 9月2日(土) 日帰り
【メンバー】  単独行
【天候】 曇り

【山域】 米山
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
米山・よねやま・992.6m・一等三角点本点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/柿崎
【ガイド】 越後の山旅(富士波出版)

【時間記録】 6:30 新潟発=(北陸自動車道、米山寺、下牧 経由)=8:20 下牧登山口〜8:35 発―9:00 水野分岐―9:13 こまの小屋―9:40 水野新道分岐〜9:50 発―9:53 しらば避難小屋―10:189 米山〜10:50 発―11:08 しらば避難小屋―11:12 水野新道分岐―11:36 こまの小屋―11:47 水野分岐〜11:52 発―12:14 下牧登山口=(米山寺密蔵院、往路を戻る)=15:20 新潟着

 米山は、越後の北陸道沿いにあって、日本海にその裾野を洗う独立峰である。街道あるいは海上よりその姿を良く眺めることができることから、古来、旅人や地元民の心に刻まれ、名山として親しまれてきた。民謡「三階節」の「米山さんから雲が出た」という文句でも知られている。地元の信仰厚き山で、山頂には米山薬師のお堂が置かれ、上越、中越の各町村では米山講が組織されていたという。

「三階節」
 柏崎から椎谷まで間に荒浜荒砂
 芥多の渡しがなかよかろ
 ハアなかよかろ間に荒浜荒砂
 芥多の渡しがなかよかろ

 米山さんから雲が出た今に夕立が来るやら
 ピッカラチャッカラドンガラリンと
 音がするハア音がする今に夕立が
 くるやらピッカラチャッカラ
 ドンガラリンと音がする

 可愛がられた筍が今じゃ切られて
 割られて桶のたがに掛けられて締られた
 ハー締られた今じゃ切られて割られて
 桶のたがに掛けわれて締められた

 米山への登山道は、主なものとして、西側日本海側に大平口と吉尾口、北側に谷根口、南側に下牧、水野口、東側から野田コースの五コースが挙げられる。この他に大平口から山頂直下まで林道で上れるコースもあるが、登山を楽しむならば、敢えてこのコースを使って山頂に立つ必要も無いであろう。このように幾つものコースがあるにも拘わらず、市販のガイドブックはいずれも大平コースを取り上げるに留まっており、その他のコースについての記載は藤島玄著「越後の山旅」によるしかない。「越後の山旅」が越後の山のバイブルとも云われる所以ではあるが、他のガイドブックの軽佻さが気に掛かるところである。
 米山には、登山を始めて2年目の92年に大平口から登った。予想外の残雪で、始めての残雪歩きの山になった。その後、三角点に興味を持ち、この山と雲取山にしかないという「原三角点」を見に行かなければならないと思っていた。92年当時は、この山に一等三角点があることすら知らなかったが、もっとも、それらの標石は、残雪の下であっただろう。
 夏山シーズンも終わり、張りつめた気も緩んでしまっている。軽く地元の山でもという気分であるが、残暑は厳しく、アブやヒルを考えると、うっかりした山には行けない。あれこれ考えると、海岸部にある米山なら、虫の心配は無さそうであった。米山には幾つものコースがあるが、いずれ、その登山コースは全て歩いてみる必要があるなと思っていたので、米山に出かけることにした。コースは、「越後の山旅」で最初に取り上げられている下牧からの旧登山道を歩くことにした。大平コースは、二番目に取り上げられているので、もともとは、このコースがメインコースであったのだろうか。麓には、米山寺(べいざんじ)という地名も残されている。
 柿崎ICで高速を下りて米山寺をめざすと、米山登山口の標識が現れるようになった。下牧の集落付近は道が判りづらいので、標識を見落とさないように注意が必要である。廃校を転用した多目的センター前が登山口で、この校舎横の空き地に車を停めた。石段を登った所に見えるお堂が米山薬師の假御堂で、登山道は、コンクリート吹き付けの細い林道をそのまま進むことになる。お堂のすぐ脇を通るので、帰りに假御堂を覗いてみたが、戸が閉められて中は見えなかった。つづら折りの道を進むと杉の植林地に入り、石仏と石碑状の道標らしきものを見ると、枝尾根の登りが始まった。残暑が厳しく、蒸し暑さに汗が吹き出てきた。ひと登りで、麓の集落を見下ろすことのできる小広場に出た。ここには、水野の集落からの登山道が合わさってきていた。この道は、道形はしっかりしているものの、草が少しうるさそうな状態で歩く者は少ないようであった。
 その先は、登山道が樋状にえぐれて、歴史を感じさせられるが、いささか歩きにくい道になった。ひとしきり汗を流すと、尾根は一旦平らになった。周囲にはブナ林が広がり、足を休めながら歩いていくと、「こまの小屋」と書かれた、雨がしのげる程度の小屋がけが現れた。「越後の山旅」によれば、この580mの台地は駒ヶ岳と呼ばれるようである。ピークではないが、下から見ると、尾根の張り出しがピークに見えるのだろうか。全国の駒ヶ岳を登る会や駒ヶ岳サミットという組織があるが、この駒ヶ岳は知られていないようである。小屋の前には、駒繋ぎの大杉というようなものもあるので、この駒ヶ岳は、馬で上がるのはここまでという、「馬返し」というような意味から名付けられたのであろうか。小屋の先には、西国三十三観世音菩薩と書かれた、石仏群が並んでいた。「越後の山旅」には、「新しいものだ」という言葉で片づけられているが、風雨に晒される月日を経て、苔も付いて、周囲の風景にすっかりなじんでいた。
 その先から、再び、額に汗する登りが始まった。水野新道と合流すると、登山道の幅は、広くなった。最近では、標高576mまで車で上がれるという水野新道の利用者が多いようである。その僅か先で、しらば避難小屋に出た。ここは、女人結界の女人堂跡で、「しらば」は、「尸羅場」と書き、霊に出会う場所=薬師如来に礼拝出来る場所という意味を持っているという。ここは小ピークとなり、その先の下り斜面からは、米山の山頂が目の前に迫っていた。
 一旦下った鞍部付近は、岩っぽい痩せ尾根になっていた。昔は難所だったのかもしれないが、右手の岩は削られて道が広げられ、左手の崩壊地の縁には手すり状に鎖が張られ、危険は無かった。再び傾斜は強まり、最後の頑張りの登りになった。山頂に近づくにつれ、ガスが流れるようになった。傾斜が緩むと、頂上の避難小屋が目の前に現れた。木造二階建ての、営業小屋にもひけをとらないような立派な小屋であった。
 まずは、三角点を見物することにした。最高点には米山薬師のお堂があるが、その一段下の右手に、航空測量の白板に取り囲まれて一等三角点があった。五段ほどの石段を上がってお堂の前に立ち、原三角点を探すと、お堂に向かって左手前隅の灌木との境目に埋められていた。きれいな標石で、「原三角点」や「内務省地理局」、「明治十五年八月」という文字も良く読みとることができた。いろいろな三角点を見るが、隅を削られたりして損なわれているものが多い中で、百二十年前のこの標石がきれいなまま保たれているのは驚きである。
 三角点の写真を取り終えて今度は風景でもと思ったら、ガスで視界は完全に閉ざされ、風も強くなり、避難小屋の中に入って休むことにした。内部は広くきれいで、機会があったら泊まってみるのも面白そうであった。天気が優れない中、何人もの登山者が到着した。ビールを一本飲んで、ほろ酔い状態で下山に移った。風の中に雨粒が混じっていたが、登山道の周囲は木立に覆われて、風は遮られていた。
 下山後、米山寺密蔵院を見学してから帰路についた。

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