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守門岳、城が沢山


【日時】 2000年6月17日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り後雨

【山域】 守門岳
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 守門岳・すもんだけ・1537.2m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/守門岳/守門岳
【ガイド】 アルペンガイド「上信越の山」(山と渓谷社)、山と高原地図「越後三山・卷機山・守門岳」(昭分社)

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 城が沢山・じょうがさわやま・330.1m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/須原/須原
【ガイド】 なし

【時間記録】 5:30 新潟発=(北陸道、中之島見附IC、R.8、川崎北、R.351、栃尾、R.290、渋川、R.252、大白川、関越国際大原スキー場 経由)=7:50 登山口〜8:04 発―8:26 エデシ―8:32 布引滝分岐―9:33 小烏帽子―10:12 守門岳(袴岳)〜10:23 発―11:03 小烏帽子―11:23 雪渓下〜11:37 発―12:09 布引滝分岐―12:17 エデシ―12:35 登山口=(関越国際大原スキー場、大白川、R.252、須原、須川橋 経由)=13:42 林道入口―13:48 ため池―11:57 鉄塔―14:04 城ヶ沢山〜14:10 発―14:15 鉄塔―14:23 ため池―14:28 林道入口=(須川橋、須原、R.252、渋川、R.290、栃尾、下田、R.289、三条燕IC 経由)=17:40 新潟着

 守門岳は、長岡と会津を結んでいた八十里越の南、現在では同じ役割を果たしている只見線の北側に、大きく裾野を広げた姿を見せる山である。最高峰の守門岳袴岳を中心に、爆裂火口壁に沿って、網張山、大岳、青雲岳、烏帽子山といったピークが連なっている。

 城ヶ沢山は、須原の破間川対岸に位置する山である。下権現堂山から北に延びる尾根の末端部に位置している。

 守門岳には、1992年5月23日に二口から、1997年4月20日に保久礼からの二回登っている。しかし、これも代表的な登山口である大白川から登っていないのが気になっていた。梅雨に入っているが、天気ももちそうなため、残雪と花を見に出かけることにした。
 大白川方面への新潟からのコースとしては、高速を堀之内ICまで使うのが一番早いが、高速代も馬鹿にはならない。安くあげるには、三条燕ICから下田、栃尾経由、あるいは中之島見附ICから栃尾経由で走るというコースが考えられる。車を走らせながら、どのようなコースにしようかと迷っているうちに三条燕ICを通り過ぎてしまい、結局、中之島見附ICで高速を下りた。
 栃尾経由で大白川駅に到着して、ひと息いれた。毛猛山塊の内檜岳以来ということになる。その時の残雪の山とは違って、周辺の山の緑は濃く、季節は初夏に変わっていた。駅を越してすぐに、破間川ダムへの道に入り、続いて関越国際大原スキー場の案内板に従って左折。スキー場のゲレンデ下で守門川を渡ると、谷の奧に、守門岳の眺めが広がった。袴岳から中岳、袴腰に至る稜線が横に連なり、山肌は谷に向かって切り落ちていた。谷は豊富な残雪を残して、緑と白の斑模様を見せていた。新潟方面から親しんでいるなだらかな裾野を引いた姿とは異なった、急峻なアルペン的な姿であった。
 スキー場ゲレンデの中に続く車道を登っていき、東に方向を変えると、車道終点の登山口に到着した。駐車場は、10数台の車でほぼうまっていた。県外ナンバーの車も多かった。登山道入口には、登山届けのポストが置かれていた。
 草地を抜けるとブナ林の中の登りになった。ジグザグを繰り返していくと、ヒド状地形の直登に変わった。先週は風邪で山を休み、まだ本調子ではないものの、急登でも足はとまらず、問題は無さそうであった。尾根上のエデシに登りついてひと息いれた。気温も上がっており、汗が吹き出てきた。谷奧に見える守門岳の稜線を見上げて、これから登るべき標高差を目で確認した。傍らの木にエデシと書かれた標識がかかげられていた。
 ところで、藤島玄著「越後の山旅」には、「イデシ」と書かれている。新潟方面の方言では、「エ」が「イ」に置き換わってしまい、たとえば「越後」は「イチゴ」となるが、これもその訛によるものだろうか。
 尾根に出てひと安心したものの、この先も急登が続いた。急な所にはロープも張られており、良く整備された道であった。幾つかの小ピークを越して、横に広がる稜線が迫ってきたところで、左の谷間に向かって尾根をはずした。谷間は残雪で覆われ、カール状に雪の壁が取りまいていた。ここが水場であり、ガイドには、涸沢を登ると書かれている所のようであった。雪は締まっており、軽登山靴では、キックステップが入らず滑りやすかった。登りはともかく、下りにはアイゼンが必要であった。幸い、用心のために6本爪アイゼンを持ってきていた。
 カール状に取りまく稜線に向かっての雪渓の登りが始まった。足を滑らせても滑落の心配は無さそうであったが、急になった所では、慎重に足を運ぶ必要があった。雪渓の正面は高度差が大きいため、左に添うように走る稜線をめざした。稜線の上からは、気持ちの良い雪原歩きになった。小ピークの小烏帽子に立つと、守門岳は眼前にせまり、登山道の刻まれた尾根が高みに続いていた。鬼ヶ面岳から浅草岳に至る稜線が、目の前に長々と続いていた。
 登山道の周辺に、花が目立つようになった。カタクリ、ツバメオモト、コブシ、ヒメシャジン、ウラジロヨウラク、シラネアオイ、イワカガミ、オオカメノキ、ヤマツツジ等。ヒメサユリの花が見あたらないのは残念であった。帰りに写真を撮ることにして、登りを続けた。夏道が残雪に隠されているところもあり、残雪の壁と山の斜面の間にできた隙間を通り抜けるような所もあった。山は、美しい時を迎えていた。しかし、有り難くないブヨも出始めていた。汗に引かれてよってくるのか、頭上には、黒雲のような渦ができていた。このブヨは、歩いている分には鬱陶しいくらいですむが、立ち止まると、血を吸おうと襲って来る者がいた。カメラを構えている間に、何カ所か刺されてしまった。
 守門岳の山頂は、人でうまっており、大賑わいであった。さらに、青雲岳方面から登山者が到着していた。最近は薮山がほとんどで、このように混み合う山頂はあまり経験していない。これも中越を代表する名山であるからにはしかたがないことか。
 袴腰への稜線をのぞくと、道は無いようであったが、潅木帯が続いてそう難しくはなさそうであった。ただ、これだけのギャラリーを前に薮コギを行う度胸は無く、別の機会ということにした。
 花を眺めながらのんびりと歩き、雪渓の上部でアイゼンを履いた。雪渓の上には、中途半端なスプーンカットができており、歩きづらかった。雪渓の下は、冷たい風が吹いており、虫もいなかった。ビール片手に腰を下ろして、ひと休みした。
 昼が近づくにつれ、気温も上がってきた。谷の奧で、残雪が落ちる雷鳴のような音が聞こえた。翌日の日曜日、隣の浅草岳で山菜採りが沢で遭難し、その救助隊が残雪の崩壊に巻き込まれて死者が出るという事故が発生したが、今年は残雪が多く、ここのところの高い気温で崩落の危険性が増しているようである。
 下ってみると、改めてこのコースは急登の連続であったことが実感できた。車に戻ってしたたる汗をぬぐった。
 翌日も山に登るために、付近のキャンプ場に泊まる準備をしてきていた。まずは、夕食の買い物のために小出方面に移動することにした。R.252に出たところで、雨が降り出した。家に戻ろうか迷いながら車を走らせることになった。須原の町近くにある城が沢山には、登山道の破線が記されているのが気にかかっていたので、よっていくことにした。破間川を須川橋で渡り、西の登山口にあたる溜め池に至る林道をめざした。林道入口には、この先通行止めと書かれていたので、ここから歩き出すことにした。笠を片手に舗装道路を登っていくと、直に溜め池に到着した。通行止めはこの先のことで、ここまでは車で入ることができるようであった。No.58入口中幹(山)線という標柱が立っており、幅3m程の切り開かれた道が山に向かって続いていた。つづら折りの道を登っていくと、稜線上に出て、その先で送電線の鉄塔の下に出た。前方から刈り払いの音が聞こえてくると、回転ノコで草刈りをしている二名の作業員に出合った。この道は、送電線の巡視路として整備されているようであった。緩やかに登っていくと、城が沢山の山頂に到着した。草むらの中に三角点が頭を覗かせていた。山頂の南の縁に進むと、下権現堂山から上権現堂山の連なりを眺めることができた。南と東に向かってしっかりした道が続いていた。草刈りの作業員は、草を刈りながら、向松川への道に進んでいった。
 雨は止みそうもなく、雨の中のキャンプはその気にならず、家に帰ることにした。

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