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城山、大力山、黒禿の頭、笠倉山
明神山、大倉山


【日時】 2000年6月3日(土)、6月4日(日) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 6月3日:晴 4日:曇り

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山・しろやま・357m・なし・新潟県
 大力山・だいりきさん・504m・なし・新潟県
 黒禿の頭・くろはげのかしら・790m・なし・新潟県
 笠倉山・かさくらやま・907.2m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田、日光/小千谷、須原/小出、大湯
【ガイド】 大力山から大力山:新潟ウォーキングガイド(新潟日報事業社)

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 明神山・みょうじんやま・759.9m・四等三角点・新潟県
 大倉山・おおくらやま・975.5m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/須原/大湯
【ガイド】 ランタン通信212号

【時間記録】
6月3日(土) 6:00 新潟発=(関越道、小出IC、R.17、R.291 経由)=7:55 西福寺〜8:04 発―8:14 金比羅宮―8:21 NHKアンテナ―8:32 鉄塔(八色線No.35)―9:00 城山〜9:10 発―9:21 湯谷城跡―9:23 T字路―9:37 干溝分岐―10:59 大力山分岐―10:17 大力山〜10:23 発―10:36 大力山分岐―10:54 三角点ピーク―11:19 松の木尾根分岐〜11:24 発―11:27 見晴台(一の沢尾根分岐)―12:08 黒禿の頭〜12:13 発―12:17 林道登山口―12:21 あずまや―13:16 笠倉山〜13:25 発―13:43 林道―13:54 あずまや〜14:10 発―14:14 林道登山口―14:19 黒禿の頭―14:52 見晴台(一の沢尾根分岐)―14:55 松の木尾根分岐―15:23 谷中山登山口〜15:20 発―16:38 西福寺=(R.291、R.17、小出、湯之谷薬師温泉センター、中家 経由)=19:00 中子沢セイフティ公園  (テント泊)
6月4日(日) 4:30 中子沢セイフティ公園発=(三ツ又 経由)=5:05 明神山登山口〜5:37 発―6:30 卷き道取り付き〜6:35 発―5:48 尾根上〜5:56 発―7:15 明神山西峰―7:20 明神池―8:01 900mピーク―8:12 930mピーク―8:26 大倉山〜8:36 発―8:49 930mピーク―9:00 900mピーク―9:27 明神池〜9:46 発―9:59 明神山東峰〜10:02 発―10:09 明神山西峰―10:26 卷き道取り付き〜10:33 発―11:08 明神山登山口=(三ツ又、中子沢温泉羽川荘、今泉、R.252、上条、R.290、栃尾、R.290、下田、R.290、加茂、R.403、茅野山IC、R.49 経由)=15:35 新潟着

 小出町の南で魚沼川にそそぎ入る大池川の源頭部には、城山から大力山、黒禿の頭、駒の頭、トヤの頭を経て鳴倉山に至る稜線が環状に続いている。このうち、城山から黒禿の頭までの間と鳴倉山には、一般登山道があり、越後三山を望みながらの山歩きを楽しむことができる。小出町の最高峰である黒禿の頭の東には、広域基幹林道高石中ノ又線が通過しており、この林道を利用すれば短時間でこのピークに立つことができる。
 林道を挟んで黒禿の頭に向かい合うピークが笠倉山である。林道からの標高差は100mほどのものであるが、一般登山道は無く、稜線伝いに薮を漕ぐか、か細い踏み跡を見つけて辿るしかない。山頂からは、笠倉山が越後三山に連なる端山であることを改めて納得する越後駒ヶ岳の大展望が広がっている。

 只見川と黒又川の間には、薮山で名高い毛猛山塊が広がっているが、その西の黒又川と魚沼川の間には権現堂山塊と呼ぶことができよう峰々がまとまっている。この中では、下権現堂山や上権現堂山が良く知られて登山者は多く、さらにその奧の唐松山もガイド文が書かれて、次第に知名度が上がってきている。この権現堂山塊の載っている地図、すなわち「大湯」や「須原」を見ると、道が記入されている知られざる山がいくつも目に入る。これらの道は、黒又川に通ずるゼンマイ道であったのが、黒又川ダムの建設によって分断され、現在では廃道になっているものが多いようである。
 明神山と高倉山は、下権現堂、上権現堂山から唐松山を経て東に延びる稜線上にある山である。三ツ又集落から本沢沿いに東に延びる林道から、明神山の山頂下をからんで黒又川ダムに抜ける道が通じており、踏み跡をたどって山頂に達することができる。明神山は、東西二峰に分かれ、西峰には三角点、東峰が最高点であり石の祠が置かれている。山頂の北側には、ブナ林に囲まれた南北の長径80m程の明神池があり、静かな佇まいを見せている。明神池から北に向かう稜線の先には高倉山があり、ピラミッド型の山頂を屹立させている。

 六月の会山行でハイキングのリーダーを引き受けて、目的地として鳴倉山を選んだ。その山域の最近の雰囲気を知っておくために、遊歩道があるという大力山を歩いておきたいと思っていた。久しぶりに晴の週末の天気予報が出たため、大力山に出かけることにした。
 大力山へ直接登るコースとしては、北側の宝泉寺から登山道が開かれているようであるが、稜線末端部の城山から歩き出すことにして、まずは西福寺をめざした。西福寺は、直進した所と、左に曲がった所の二ヶ所に駐車場があるが、登山口は左の駐車場となる。西福寺は天文年間(1532〜1555年)に開山された曹洞宗のお寺で、狩野松州や石川雲蝶の襖絵や彫刻で越後日光とも称されている。観光バスも入る大きな駐車場が設けられ、その脇には鐘楼や雨避けの被せられた江戸末期建立の開山堂が並んでいる。登山道の看板は無かったが、駐車場に入って左手に上がっていく車道があり、これがテレビ塔へ続く道のようであった。車でも上がれるようであったが、途中で下山して戻ってくる可能性もあり、寺の駐車場から歩き出すことにした。
 つづら折りを繰り返して高度を上げていくと、たちまち汗が噴き出してきた。いよいよ暑さを堪えながらの山歩きの季節になったが、体の方の準備が整っていないようである。途中で鳥居が現れたのでのぞくと、奧に金比羅宮という額の掲げられたコンクリート製のお堂があった。下から踏み跡が上がってきており、古くからの信仰の山のようである。車道は、大平山と呼ばれる山頂まで通じており、一帯にはテレビの中継基地が並んでいた。NHK中継基地の後ろに石の祠があり、登山道が始まっていた。稜線の先を望むと、城山までは思ったよりも距離があり、大力山は遠かった。
 木立に覆われた登山道は、良く整備されていたが、歩く者は少ないのか、ガイドにも書かれているように蜘蛛の巣が目立ち、ストックで切り開きながら進む必要があった。初夏を迎えて、毛虫が枝から垂れた糸の先にぶるさがっていた。関越道のトンネルの上を越して、騒音が後ろに遠ざかると、送電線の鉄塔の立つピークに出た。その先で、三等三角点「岩平」が登山道上に頭を出していた。緩やかな起伏の道が続いたが、城山手前で、ロープの助けも借りるような急坂が現れた。自然の地形に加えて、空堀として人工的な手が加えられているのかもしれない。城山の頂上は、台地状で草原が広がっていた。八海山、中の岳、越後駒ヶ岳の三山のそろい踏みを眺めることができた。湿気が多いためか、かすんでいるのは残念であった。城山の頂上には、板木城跡、雷土(いかづち)城祉という標識が少し離れて掲げられていた。城山は町界線上にある山であるが、それぞれの集落で異なった名前で呼ぶなら、昔の城主の名前で呼んだ方が良いであろうに。白鳥がはばたいているような形をした山城であったというなら、白鳥城と呼ぶのは良いけれど、それでは名前負けするか。ベンチもあって休憩には良い山頂であったが、先は長かった。
 城山から先に進む道への入り方が判り難かったが、板木城跡の標識脇から杉林の中を下っていく道がそうであった。続いて登った小ピークの上には、湯谷城跡と書かれた古びた標識が地面に転がっていた。この山塊の麓にある雷土、湯谷、芋赤、板木、干溝の各集落からは、登山道が稜線上に通じており、稜線沿いの道も板木遊歩道という名前が付けられていた。思ったよりも、地元との関わりの深い山域のようである。
 大力山の山頂は、縦走路から北い僅かに外れている。黒禿の頭への縦走路から分かれて、少し先の高みをめざした。大力山は、横に広がったなだらかな山頂を持ち、緩やかな登りを続けるうちに、最高点に達した。周囲は潅木に覆われて見晴らしは無く、山頂標識のようなものは無かった。目の前に迫った鳴倉山やトヤの頭を眺めながら、僅かに下って山頂台地の縁に進むと、広場が開かれて山頂標識が立てられていた。小出の町を見下ろし、権現堂山の連なりを眺めることができた。
 分岐に戻り、黒禿の頭への縦走路に進むと、道は草がかぶり気味になった。この先は歩く者は少ないのかもしれない。縦走路の南側には林道がすぐ下まで迫っているはずであった。木立の間からうかがうと林道は見えるものの、林道へ下りるような踏み跡は見あたらなかった。伐採植林地が稜線を越して広がっている所があり、登山道が消えていたが、その先で再びしっかりした道が現れた。三角点ピーク(栃窪三等三角点)の上で三角点を探すと、登山道の脇に見つかった。
 気温が上がって、体力もかなり消耗するようになってきた。登りを続けていくと、木立の中で分岐に出た。「松の木尾根を経て芋赤に至る」という標識が立てられていた。ここからは、再び登山道の状態が良くなった。ひと登りすると、見晴台という看板が現れて、南に延びる尾根には道が切り開かれて、「一の沢尾根を経て芋赤に至る」という標識が立っていた。どうやら、芋赤の集落から黒禿の頭へ至る登山道が整備されているようであった。見下ろすと、尾根沿いに、道が続いているのを確認することができた。
 僅かに登って670mピークの上に立つと、その先は、痩せた稜線が高みに向かって続き、周囲の展望が広がった。このピークの名前は地図には記載されていないが、松の木尾根の下山口には、谷中山登り口という標識が立てられており、このピークのことを言っているようであった。芋赤の集落付近から見ると、立派なピークに見えることから名前が付けられているようであった。
 稜線の脇は潅木で覆われて高度感はないとはいえ、左右が切り落ちており、足元には注意が必要であった。もっともそのおかげで、実際の標高以上に高山気分を味わうことができた。
 左手の駒の頭から延びる稜線が近づいてくると、ようやく黒禿の頭に到着した。狭い切り開きの中に、小出町最高点という標識が立っていた。僅かな木陰の下でひと休みした。大力山の台形の山頂は、かなり下に遠ざかっていた。駒の頭へ至る稜線をうかがうと、最近の刈り払いと思われる踏み跡が続いていた。西福寺に車を置いているのではどうしようもなく、駒の頭へ進むのはいつかの機会にということにした。
 黒禿の頭から東に道が続いており、どうやら林道へ通じているようであった。笠倉山のことも気になって、先に進むことにした。僅かな下りで、林道に降り立った。想像していたのと違って、広域基幹林道高石中ノ又線は、二車線幅の舗装道路であった。ここまで車で入れば、黒禿の頭は5分の登りの山ということになってしまうので、残雪のために通行止めの時期に登ってきたのは幸いであった。
 笠倉山への登山道はと見渡せば、林道の反対側は、コンクリート吹き付けの切り通しになっていた。登り口を捜しに林道をどちらに進むか迷ったが、右に行くことにした。僅かに進むと、右手にあずまやが現れた。林道開通記念の石碑が置かれ、駐車場も設けられた展望休憩所になっていた。駐車場の奧を探すと、ナタメがあり、踏み跡が稜線に向かって続いているようであった。しめしめと思ってここを登ると、容易く稜線上に達することができた。しかし右手に方向を変えると、踏み跡は消えてしまった。薮は濃く、枝をかき分け跨ぎ越えの超スローペースの歩きになった。木の葉も茂って、見通しも利かない中で、我慢の薮漕ぎが続いた。左右の一段下に林道が走っており、帰りに道を見失う心配が無いことが救いであった。途中で、雪原が現れて、少しだけ楽をすることができた。
 1時間近くの薮コギの末にたどり着いた笠倉山の山頂は狭く、周囲の展望が広がっていた。湿気のためか霞んで、遠望が利かないのが残念であったが、越後駒ヶ岳が目の前に広がっていた。秋か初冬の晴れた日に登ったならば、素晴らしい展望を楽しめそうであった。ここまで1時間近くかかったが、帰りもそれくらいの時間がかかりそうであった。東に続く稜線を見ると、踏み跡が続いていた。この道を使って楽をすることにした。潅木の中の踏み跡を下っていくと、直に薮にはまってしまった。おかしいと思って引き返すと、下ってすぐの所で、踏み跡は右手に方向を変えていた。この踏み跡に進むと、山頂直下に戻るようにしてから急な下りが始まった。ヒドのような地形を、木の枝を頼りに下っていくと、沢に出た所で、踏み跡は消えてしまった。右岸の一段高くなった縁の薮を伝っていくと、下に林道が見えてきた。最後は、沢を歩いて林道に飛び出した。ここの入口に、赤布のような目印は無かった。あずまやからだと、二本目の沢に入るのだが、初めてだと判りづらそうである。また、いつまで残されているのかも怪しい踏み跡であった。
 あずまやに戻って、残雪で冷やしたビールを飲みながらひと休みした。時間もかなり遅くなっていた。黒禿の頭に登り返し、遠くに見える大力山をめざして下山を始めた。時間も遅くなっており、草臥れてきたため、途中で分かれる松の木尾根を使って芋赤に下りることにした。山を下ってしまえば、車道歩きで少々遅くなっても、そう気にすることはない。
 松の木尾根は、林の中の下りで始まった。林道が横切るかと思ったが、そのまま高度をさげて、痩せた尾根に乗った。振り返ると、林道は、この松の木尾根のわずか手前で終わっていた。歩きやすいしっかりした道で、麓がどんどん近づいてきた。最後は、尾根の末端で杉の木立から水田脇の農道に飛び出した。ここには、谷中山ハイキングコースという標識が立てられていた。
 下山してホットしたものの、長い車道歩きが残されていた。途中の自動販売機で買ったコーラ片手に歩き続けた。
 車に戻った後、薮コギで埃まみれになっていたため、まずは温泉を目指した。近くの湯之谷薬師温泉センターで汗を流してひと休みした。
 一応、二日間の山の用意をしてきたので、日曜日は、これも懸案の一つであった明神山に登ることにした。この山は、98年6月21日に唐松山に登った後で、地図にある破線が気になって、尾根の取り付きを確認したが、機会を逸してそのままになり、上村さん一行が先に登ることになった。ビールと夕食を買い込み、野宿の場所を求めて、中子沢をめざした。
 中子沢温泉の羽川荘手前に砂防ダム工事に伴う公園ができており、炊事棟やトイレが設けられていた。道路からは奥まっており、野宿には理想的な場所であった。夕食を食べ終えればすることはなく、テントを張って早々に眠りについた。
 充分な時間眠ることができ、夜明けと同時に目を覚ました。三ツ又の先からの林道では、地図で現在位置を確認しながら車を走らせた。明神山の山頂へは、三ツ又よりの手前からトラバース気味に近づいていく破線が地図に記されているが、その入口になる林道の跡も見つけることができた。この林道は、かつては日本珪素工業の珪石鉱山へ通じていたというが、休鉱になってひさしいのか、薮に覆われていた。先回は、林道が雨水によって削られて、気をつかう運転が続いたが、道路を補修したのか、今回は路面の状態はそう悪くなかった。
 左から入り込む沢を渡ったところの尾根の末端手前が、登り口になる。ここには、目印はないので、地図を確かめるとしても、現在位置の確認が難しい。登り口には、車1台程のスペースしかないが、少し先に広い駐車スペースがある。
 尾根に取り付く山道に進むと、歩き始めから急な登りが続いた。尾根の上に出ても、急な登りが続いた。朝方は雲が低く垂れ込めていた。太陽が昇るにつれて、晴れ間が広がるだろうという期待もむなしく、山の頂上部は雲で覆われていた。展望を楽しむことができないのは仕方がないとして、明神山の頂上を確認することができないのには困った。傾斜が緩くなったことから、ここが609点のようと判断した。この先の道は、尾根の右手をからむようになった。すぐ先で尾根の切り通しのような所があり、潅木で覆われているが、鉱山からの卷き道が合流しているようであった。この先はからみ道となり、尾根に向かっての取り付き部を探しながらの歩きになった。
 古びたビニールテープが潅木に結びつけられており、切り跡もあるため、ここから登り始めることにした。右手にヒドを眺めながらの軽い薮コギ登りになった。色あせた赤布も見つけることができた。稜線部に出たところで、左右のどちらに進むべきか迷った。右は下り気味になっていた。左をうかがうと、ナタメなどの気配は無かった。稜線の向きを磁石で測ると、北東から南西に走っているということで、山頂は北東すなわち右手ということになった。薮をかきわけて僅かに下ったところが、山頂下の稜線鞍部のようであった。ここからは、稜線の一段下をからむように、はっきりした踏み跡が続いた。頂上に近づいた所で、直上するようにコースの向きが変わった。下りは、そのまま下ってしまうので、ここは要注意である。山頂が近づくと、木の伐採が目立つようになった。登り付いた頂上部は、木立が切り倒されていた。少し低くなった所に三角点を見つけることができて、明神山の西峰に登ったことを確認できた。
 ガスがたれこめて、明神池は見えないため、磁石で方向を決めて、林の中を下った。残雪を下っていくと、すり鉢状に囲まれた中に明神池と思われる雪原が現れた。明神池は、雪解けが進んで、所々水たまりができていた。池の周囲にはブナ林が広がており、静かにガスが流れていた。「冬の落とし物」と、つぶやいたとたん、しじまを破って、薮を鳴らしながら、なにやら獣が遠ざかっていった。カモシカだと思うのだが。まさか、熊ではないよな。
 大倉山に登るにしても、雲で視界が閉ざされているのが問題であった。雪原を進んだ所から、左手の尾根に上がった。尾根上には、境界見出標の杭が埋め込まれて、草が被っているものの、刈り払い道が続いていた。地図を見ると、迷う心配のなさそうな尾根なので、どうしようかと思いながら先に進むことにした。急な登りが900mピークまで続いた。帰りには、後ろ向きになって、木の枝をロープがわりに掴みながら下るような所もあった。
 900mピークからは、稜線は右手に向きを変えた。展望の開けた日ならば、ここからは展望を楽しみながらの稜線漫遊になろうか。小さなピークを一つ越すと、大倉山への最後の登りになった。右手の斜面は岩場になり、その縁を絡みながらの登りになった。
 大倉山の山頂は狭く、その真ん中に、傾いた三角点が立っていた。稜線の先をうかがうと、かすかな踏み跡がさらに続いているのが見えた。稜線の先の902.8m三角点を経て大倉又沢の方へ回れるのだろうか。
 ところで、この902.8mの四等三角点の点名は「大倉」で、大倉山の三等三角点は、「明神峠」という。明神峠とは、黒又川沿いに至る山道の乗り越し部に付けられた地名で、明神山付近に付けられたもののように思われるのだが。三角点の点名と実際の地名が少しずれているようである。
 谷を覗くと、残雪が多く残っていた。雲が流れて、展望が開けないのが残念であった。檜岳や毛猛岳が目の前に広がっているはずであった。結局、下りの途中で雨が降りだした。雨具を着る程ではないため、そのまま歩き続けたが、足元が余計に滑りやすくなった。下りの途中で天気が回復してきて、おおよそ下った頃には、明神山の展望が眼下に広がった。
 明神池に戻ってひと休みした。ビールを雪に差し込んで、冷たいビールを味わった。雲も次第に消えてきて、形の良いピラミッド型の大倉山の山頂が姿を現した。イワウチワも斜面の日溜まりに花を開いていた。明神池の東側の尾根を辿って東峰をめざした。岩まじりのヤセ尾根となり、振り返ると、大倉山が高く聳えるのを眺めることができた。谷の奧には黒又川ダムの水面が開けていた。沢の合流部に、ビニールシートと思われる青色が見え、どうもゼンマイ小屋のようであった。登山口の奧に青のビニールシートを被せたバイクが置かれており、奥地に滞在してゼンマイ採りを行っているようであった。
 明神山の東峰は展望の良いピークで、石の祠が置かれていた。東に向かって急に下っていく尾根には、かすかな踏み跡があった。地図にもある出合沢に至る道であろうか。西峰に向かう踏み跡に進むと、鞍部付近で踏み跡はわからなくなったが、適当に高みをめざすと、西峰の三角点に戻ることができた。
 下山は、登ってきた道を忠実に辿って、からみ道に下りたった。後は、山道をたどりさえすればよかった。途中で振り返ると、明神山の東西の二峰の間から、大倉山の山頂が頭をのぞかせていた。
 下山後、時間も少し早かったので、林道の奧まで偵察がてら進んでみた。本沢沿いには、はっきりした踏み跡が続いていた。林道沿いには、ゼンマイ取り禁止の看板が数多く立てられており、この一帯では、ゼンマイ採りが生活の糧になっているようであった。中子沢温泉で汗を流し、下道を使って新潟に戻った。
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