0033

八石山、小城山


【日時】 2000年5月21日(日) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 雨後曇り

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 八石山・はちこくさん・518m・なし・新潟県
 上八石山・かみはちこくさん・494.9m・三等三角点・新潟県
 下八石山・しもはちこくさん・513.8m・二等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/岡野町/法坂
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報事業社)、新潟の里山(新潟日報事業社)、新潟50山(新潟日報事業社)、新潟花の山旅(新潟日報事業社)、足の向くまま気の向くまま(新潟日報事業社)

【山域】 東頚城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 小城山・こじょうやま・251.8m・四等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/岡野町/法坂
【ガイド】 新潟ファミリーハイキング(新潟日報事業社)、ふるさとの散歩道(新潟県観光協会)

【時間記録】 7:00 新潟発=(関越道、小千谷、R.291、七日町、昭和橋、芝ノ又、八王子 経由)=9:05 ステーキハウス八石駐車場〜9:20 発―9:45 婆石〜9:50 発―(10分雨宿り)―10:20 婆石展望小屋〜10:25 発―10:40 八石山―10:53 久之木峠―11:15 下八石山〜11:30 発―11:40 久之木峠―11:52 八石山―12:00 婆石展望小屋―12:12 上八石山―12:20 婆石展望小屋〜12:26 発―12:37 婆石―13:00 ステーキハウス八石駐車場=(八王子、芝ノ又、南鯖石、高柳、門出、大沢、小白倉、R.403 経由)=15:26 越後おぐに森林公園―15:39 公園上部―15:55 小城山―16:14 公園上部―16:30 越後おぐに森林公園=(相野原、R.404,
長岡IC、関越道 経由)=18:00 新潟着

 八石山は、柏崎市と小国町の境界に位置する山である。柏崎地方では、八石山、米山、黒姫山をまとめて、「刈羽三山」と呼んでいる。八石山は、三つの峰からなり、北に位置する二等三角点の置かれた513.8m峰を下八石山、最高点の518m峰を中八石山、南に位置する三等三角点の置かれた494.9m峰を上八石山と呼ぶ。

 小城山は、越後おぐに森林公園の背後にある山である。鎌倉時代、源頼朝の御家人小国氏の支配下にあった山城が置かれていたことから、小国城跡とも呼ばれている。森林公園上部から山頂まで、遊歩道が整備されている。
 今回の山行の第一候補は大力山であった。午前中は雨が残るという天気予報であったのだが、やはりというべきか長岡を過ぎる頃から雨になった。小出方面は諦めて、空の明るい小国方面、第二候補の八石山に転進することにした。連休後、山のつきは落ち込んでいるようで、毎週同じ事を繰り返しているような気がする。
 八石山は、94年9月23日に久之木峠経由で登っている。この時は、市販のガイドブック頼りであったために、中八石山に登ったのみであった。最近出版されたガイドによれば、下八石山は登山道が整備され、山頂には山小屋も設けられているようである。これに対し、上八石山は、地図を見ると、登山道から少し入り込んだ位置にあるようだが、多く出されているガイドのいずれにもこの山頂のことは書かれていないのが不思議である。いろいろな興味や疑問を果たすために、もう一度登ることにした。
 小千谷からは、山越えで小国は遠くはなかった。昭和橋を渡り、土口から県道田代小国線に入ったのは、失敗であった。入口に通行止めの看板が立っていたのだが、前方から自動車が走ってきたため、通行できるのかと思ってそのまま進んだ。山間部の細いうねうねした道をかなり走り、登山口のステーキハウス八石まで2kmという看板を見た先で、道路が崩れて通行止めになっていた。再び来た道を戻り、県道小千谷柿崎線から八王子をめざした。この方が良い道であった。八王子の集落には八石山の案内板が置かれていたが、中八石山しか山頂として書かれておたず、あと二つのピークについてははっきりしなかった。
 登山口のステーキハウス八石はログハウス風の立派な建物で、地域起こしのひとつとして、八石山遊歩道の整備と併せて作られたものという。かなりの山奥という心配も浮かんだが、下山後に中をのぞくと、客はけっこう入っているようであった。地元で育てた肉牛のステーキを食べることができるというが、山でお昼を食べてしまったので、今回は省略した。お金に余裕がなかったというのが、本当のところであるが。登山者のためも考えてのことか、東屋や広い駐車場も設けられていた。
 登山道入口に立つ木の鳥居をくぐり、丸太の段々も設けられた良く整備された道を進んだ。登山道の周囲には、新緑が美しいブナ林が広がっていた。尾根沿いの緩やかな登りを続けていくと、雨が降り始めた。傘をさして登っていくと、婆石(姥石)に到着した。この先は、二本のロープが垂れ下がった急斜面になっており、婆石の謂れを読みながらひと休みになった。山の斜面に頭を出している岩が、婆石のようであった。
 婆石の謂れは、以下のように書かれていた。
==============================================
八石の婆石
 昔、八石山に鬼のような老婆が住んでいました。
 夜になると風に乗って麓の村々にやってきて子供をさらって連れ帰り、食べてしまったということです。
 村々の人達は、「弥三郎婆さま」といって恐ろしがりました。
「悪い子になっていると弥三郎婆さまが来るぞ」というと、いたずらしていた子供はぴたりとやめるし、泣いていた子もすぐ泣きやんだということです。
 この婆は昼は岩穴に住んで大きな石を扉にして穴の入口をふさぎ、穴の中に閉じこもっているので退治することもできませんでした。それがこの「婆石」です。この石の裏側には鬼婆の住んだ「岩穴」があると言われています。
 さすがの鬼婆も世の中がだんだん開けてくると神通力がなくなってきたので弥彦の方へ逃げていき、伊夜日子三太郎の後妻になったということです。
 ところが弥彦に行った鬼婆はまたまた本性をあらわして、夜になると近所の子どもをさらって来て食べ、その着ていた着物を一本の杉の木にするしておきました。
 村の人達は大変困ってどうしたらよいか、えらい坊さんに相談しました。
 その坊さんのはからいで鬼婆も神様にお祭りすることになりました。そして立派なお堂を建ててやり、「妙多羅天女」という名前をおくりました。
 そうすると鬼婆の悪行はぴたりとおさまり、かえって子どもの守り神になって近郷近在の子供を病気や災難から救ってくれるようになりました。
 人々は大変有難がり「みょうたればさ」と言って親しみあがめたということです。
 この婆は中鯖石の久木太の百姓弥三郎の姑婆だったということです。
郷土史研究家 山崎正治 文
==============================================
 この弥三郎婆の伝説は、守門村の権現堂山にもあり、そちらには「弥三郎清水」や「権現の鬼の穴 弥三郎婆隠れ跡」といった地名が残されている。本家争いとなればどちらに軍配があがることやら。
 謂れを読むうちに、黒雲わきたち雷鳴とどろきて、夕暮れの訪れの様な雰囲気に変わった。妖気まではいかぬとも、薄気味悪く感じて、先を急ぐことにした。
 赤土の急斜面は、濡れて滑りやすくなっており、ロープが張られており、助けになった。前方に横たわる稜線の高さを見て、ほとんど登り切っていることは判ったが、雷鳴が近づいてきたため、途中の木立の下で雨宿りをすることにした。ブナの幹を伝う雨水を眺めながら、しばらくボーットしていた。雷は、西から東へとゆっくりと動いていった。
 歩き出すと、ほどなく婆石展望小屋に到着した。老朽化のために立ち入り禁止との掲示があったが、上に登ることができた。雨が小降りになったので、中八石山に向かった。緩やかに起伏する稜線を進んで、ひと登りすると中八石山に到着した。ここの展望小屋も、老朽化のために立ち入り禁止となり、階段も外されていた。先回登った時には、そこからの眺めが良かったことから少し残念であった。もっとも、木立によって展望が無くとも、それが本来の山頂の姿であるなら、それ以上のことは望むべきではないと思う。
 八石山は、別名升形山ともいうようであるが、その謂れを書いた看板が山頂に立てられていた。
============================================
ますがた
 八石山の頂上は平らになっていて、約1.5アールほどの広さがあります。その平地の縁が少し高くなっています。これは、昔、大きな升を作った名残りであると言われています。
 昔、この山に城がありました。この城の殿様が頂上に大きな升を作り、家来を三十人〜四十人くらいその中に入れて、「一升、二升、・・・・」と人数を数えるのに使ったということです。それからこの場所を「ますがた」と言うようになったと言われています。

 これは単なる、はなしではないようです。
 升形というのは元々城郭用語で、横矢升形、城門升形など色々に使われている言葉なのです。
 その中で城門升形というのは、一の門と二の門との間の空地のことで無論普通は四角い形をしており、こういう所を武者溜と言います。こうして置くと一定の人数の部隊が同時に出入りできるわけで、こんなところから人を軽量するためという説もあるくらいです。
 特に「五八の升形」では、虎口(城の出入口)の升形の大きさが、縦八間・横五間で、ちょうど四十坪の大きさの升形で一隊の人数、五十騎、三十騎の部隊を出入りさせるに都合よいと言いますから、こうなると前述の伝説もうなずけます。
 前に述べた八石山頂上の平地の縁の少し高くなっているところは当時土塁の跡と見られます。平地の広さ約一・五アールは約四十五坪ですから五八の升形くらいの大きさになるわけです。
 いずれにしろ「ますがた」という地名も残っていることは、かつて此の山に城が築かれていたという証拠にあるわけです。
 郷土史研究家 山崎正治 文
============================================
 近くの越路町にも桝形山があり、同じ謂れによっているようである。
 久之木峠へは100mの下りで、その後に100mの登り返しとなる。先回は9月に登ったためもあるのか、草が被った登山道という印象が強かった。今回は、新緑の季節とあって、草はうるさくはなかったものの、ここまでの道と比べれば、格段に細い道になった。薮っぽい道であったが、タニウツギやオオイワカガミ、ナルコユリ等の花を見ることができた。
 下八石山の山頂は、マイクロウェーブの反射板が置かれ、展望の良い広場になっていた。雨上がりの陽射しの中に、刈羽黒姫山や米山、尾神岳、兜巾山の眺めが広がっていた。柏崎市街地や日本海が近い距離に見えた。豆の木小屋という避難小屋も設けられ、地元の人が、ペンキの塗りなおしに上がってきていた。ハイキングのお弁当を広げるにはもってこいの山頂であった。追田方面の登山道をうかがうと、良く整備されており、短時間で登ることができるようであった。
 中八石山と下八石山の間の整備が良くないのは、柏崎と小国の間の縄張り意識が働いているためのようであった。通しで歩いてこそ、山の価値も増すことになると思うのだが。
 婆石展望小屋まで戻り、登山道をそのまま南下した。すぐ先のピークを越したところで、八石城祉〜石川部落へという標識が現れ、西に向かう踏み跡が分かれた。薮っぽい道を僅かに下ると尾根の上に出て、その先をひと登りすると上八石山の山頂に出た。周囲は、雑木林に囲まれて展望は無く、三角点だけが頭を出していた。中八石山や下八石山の山頂と比べれば、いかにも地味な山頂であった。
 目的の三つの山頂を踏んだことで満足して下山に移った。婆石までの急坂は、雨で登山道が滑りやすくなっていたため、ロープを助けに下った。その後は、新緑のブナ林を眺めながら歩いていけば、登山口に戻ることができた。
 下山後に、もうひと山ということで、「新潟の里山」の後書きリストにある天王山に回ったものの、萬世橋から先の登山道が見つからず、これは断念。いずれ、問い合わせてから、再挑戦としよう。
 もう一山をあきらめきれず、地図に破線の記載されている、小城山に寄ってみることにした。小城山の麓一帯は、小国森林公園として整備されている。スキー場のための大きな駐車場に車をとめた。釣り堀の脇の尾根沿いに登っていくと、キャンプ場の管理棟脇に出た。車道が上がってきており、歩き出す地点を早まったようであった。しばらく車道歩きを続けて、トリムコースのスタート地点のある森林公園上部まで進むと、ここから尾根沿いの遊歩道が始まった。ここまで、車で上がって来れるようであった。小城山はどこだろうかと前方をうかがうと、上が台地状になって隅に大木が立つ小ピークがそのようであった。家族向けともいえる緩やかな登りが続き、ピークに近づいたところで、連続した二つの吊り橋が現れた。昔の空堀を越しているようであった。たいした段差でもないので、堀を上り下りしたほうが面白いと思うのだが。最後に、短い急斜面を登ると、小城山の山頂に到着した。頂上は小広場になっており、城跡といった雰囲気がただよっていた。八石山の連なりを正面に眺めることができた。家に戻る時間が気になる頃になっており、下山を急ぐことにした。

山行目次に戻る
ホームページに戻る