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足沢山、内桧岳


【日時】 2000年4月22日(土)〜23日(日) 1泊2日
【メンバー】 上村幹雄、岡本 明
【天候】 22日:曇り 23日:雨のち晴

【山域】 毛猛山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 足沢山・あしざわやま・1107.1m・三等三角点・新潟県
 内桧岳・うちひのきだけ・1054・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/須原/毛猛山
【ガイド】 ランタン通信211号

【時間記録】
4月22日 6:50 新潟発=(関越自動車道、堀之内IC、R.17、下倉、R.252 経由)=8:45 大白川ゲート〜9:10 発―10:10 茂尻橋―11:04 鉄塔―12:25 711.2m三角点(茂尻山)―14:56 足沢山―15:27 1054mピーク下  (テント泊)
4月23日 6:00 1054mピーク下発―7:52 内桧岳〜8:04 発―9:20 1054mピーク下〜12:50 発―13:32 足沢山―15:09 711.2m三角点(茂尻山)―15:45 鉄塔―16:10 茂尻橋〜16:17 発―17:35 大白川ゲート=(往路を戻る)=20:00 新潟着

 毛猛山塊は、会越国境を貫く六十里越の南に広がる山塊である。北面は国道252号線に沿って開けているが、東面は只見川の田子倉ダム、西面は黒又川の黒又川ダムに挟まれ、南には未丈ヶ岳までの長い稜線が続いている。豪雪地にあるため、冬は雪によって閉ざされ、夏は猛烈なヤブで、人を容易に寄せ付けない秘境になっている。一般登山道は無いため、残雪期を狙うことになるが、その成功も雪の付き方次第ということになる。
 足沢山は、毛猛山塊の北西部に位置し、国道252号線に近い位置にある山である。足沢山に至るこったが沢右岸尾根には踏み跡があり、他のルートと比べれば、軽い薮漕ぎで登ることができる。また、内桧岳は、足沢山から太郎助山に至る稜線の途中から西に延びる稜線上にあって、桧沢の谷を挟んで桧岳と向かいあう山である。

 毛猛山塊は、自分の手には負えない山と思って、これまで足を踏み入れたことはなかったし、実のところ山行報告もじっくりとは読んでいなかった。そのため、峡彩ランタン会で、昨年の毛猛山に引き続いて、桧岳への山行を行うことになったが、参加の手を挙げることができなかった。前日まで出張が入っており、無理はできそうもないということもあったのだが。その週の始めになって、上村さんからの電話で、後発隊として、足沢山から内桧岳を目指したいがどうかねという誘いが入った。そう急いで歩く計画ではなさそうだし、毛猛山塊入門のためには手頃かなと思って同行させてもらうことにした。前日の電話連絡で、先発隊に大勢が参加したため、後発隊は二人だけということを知った。共同装備の分担も楽ではなさそうであったが、ゆっくり歩けば、なんとかなるだろうと思った。ランタン通信の報告を読み返すと、711.2mの三角点が見つからなかったと書かれていたので、点の記を探し出して、三角点の位置をメモして山の準備とした。
 7時少し前に上村さん宅に寄ってから山に向かった。登山口の入広瀬方面へは、三条から下田、栃尾を経由するコースが距離的に近いが、少しでも時間を節約するために、堀之内まで高速道を使った。只見線沿線に入るにつれて周辺の山の雪は多くなった。大白川駅を過ぎた先で除雪は終わっており、国道は雪に閉ざされていた。この国道252号線と隣の国道352号線は、冬季閉鎖期間がとりわけ長く、開通は5月下旬から6月初旬になる開かずの国道になっている。
 まずは、雪道の歩きが始まった。国道に沿って只見線の線路が走っており、線路を歩くことも考えられるが、雪が締まっていたため、そのまま国道を歩き続けた。上村さんは、あらかじめ列車の運行時間を調べてきたというが、確かに1日4本程の超ローカル線である。しかし、「良い子は線路で遊ばない」と学校で教わったのが身についているのか、線路歩きでは、体は楽でも気疲れがしそうである。昨夜来の雨は上がっていたが、脇を流れる末沢川は茶色の濁流になっていた。朝方にかけて、かなりの雨が降ったようである。末沢発電所を通り過ぎて、もうひと歩きした茂尻橋の先が取り付きになった。左に沿った只見線がスノーシェッドに入る手前で国道から分かれて右手のブア林に入ると、その奥に吊り橋があった。これからの第一の難関に備えて、ひと休みした。
 吊り橋は、鉄製の頑丈な作りであるが、冬の間は踏み板の金網が外してある。枠組みに足をかけ、両脇のワイヤーに手を掛けての、恐る恐るの渡りが始まった。水面までの距離はそう有るわけではないが、茶色の濁流が渦巻いているのを見下ろすのは、良い気分ではなかった。ビブラムの靴底も、濡れた状態では鉄枠の上で滑り気味になっていた。渡り終えて、大きく深呼吸。
 左よりに進んで杉林を抜けると、こったが沢に出た。スノーブリッジがあり、簡単に右岸に渡ることができたが、岸辺が2m程の雪壁になっていた。先発隊がたらしておいてくれた固定ロープにしがみついて攀じ登ろうとしたら、荷物に引かれて、あと一歩が登れない。上村さんにお助けシュリンゲで引っ張ってもらい、ようやく上がることができた。息もあがり、いきなりのお助けモードで先が思いやられた。
 先発隊の踏み跡をたどって雪の斜面を登っていくと、尾根の上に立つ鉄塔に到着した。この先の尾根は、始めは幅が広いものの、次第に痩せ尾根に変わり、それとともに尾根上の雪も消えていった。薮漕ぎの開始には違いないが、思っていたよりもはっきりした踏み跡が続いていた。日当たりの良い尾根道には、イワウチワの花も開いて春の訪れを告げていた。674mピークの上には、営林署のものなのか、小さな石の標識が頭を出していた。ここから左に方向を変えて、細尾根をひと登りすると、711.2mの三角点ピークに出た。
 この三角点名は、「茂尻」である。たとえば、足沢山の点名は「足沢」となっているように、点名は、山とか峰を省略していることが多いので、このピークを茂尻山と呼んでさしつかえないかもしれない。ひと休みするついでに、三角点捜しを行った。点の記には、登り口のマツから南に5.5m、東から少し南に下がったマツから1.0m、南からやや西に寄ったクリから3.9mと図示してある。見渡すと、クリの木は見あたらないが、登り口に目立つマツの木があった。そこから6m程の位置にも、細身ではあるがマツの木があった。そこから1m程のあたりを探すと、踏み跡脇の潅木の下に三角点を見つけることができた。落ち葉を除くと、四等三角点の文字もはっきり読みとれるきれいな標石が現れた。ささやかではあるが、会山行の記録のための貢献になっただろうか。
 脇の雪原に出ると、足沢山の山頂がそう遠くはない距離に見えた。その先しばらくは、ブナ林の中の雪堤が続き、気持ちの良い歩きになった。尾根の傾斜が増し、再び痩せてくるにつれて、薮がうるさくなってきた。足沢山の山頂へは、こったが沢の支流を巻くため、近いように見えるが、なかなかたどり着かなかった。人声が聞こえたと思って、二人で不思議に思っていたら、足沢山の山頂部に人影が見えた。順調に登ってきて、先発隊を視野に捕らえることができたようである。先発隊に追いつくのは、その後の登りもきついために無理なようであったが、テントの設営のために足を止めてくれれば、直に合流することが可能な距離のようであった。
 キックステップで雪原を登って足沢山の頂上に立つと、目の前に太郎助山が大きく広がっていた。その右に続いて見えるはずの桧岳は雲に隠されていた。目に入ってきた内桧岳に続く尾根からは雪は消えて、所々雪のブロックがのっているのが見えた。小さなアップダウンが続き、地図で見た感じとは大きく違っていた。果たして歩けるのかどうか、不安がわいてきた。
 足沢山の先の雪の消えた尾根には、踏み跡が現れていた。左下に広がる雪堤に下りて、内桧岳への分岐となる1084mピークの下まで進んだところで、幕営とした。太郎助山を正面に眺めることのできる、気持ちの良い場所であった。尾根の先を臨むと、先発隊が登っていくのを目で捕らえることができた。毛猛山への登頂を果たした金曜発組と、登りの途中にある早朝発隊の無線交信を聞いていると、早朝発隊は疲れも出て、どこまで進むか迷っているようであった。途中で7mの雪壁があるため、その手前に泊まるかどうかと話していた。
 二人での幕営地の整備は、なにかと忙しかったが、そう時間もかからずにテントに入ってビールで乾杯までもっていくことができた。軽量化のために、乾燥食料を中心にした禁欲的な夕食になった。それでも、アルコールは充分にあり、山の話をしているうちに夜になっていった。夕方からガスが出てきて、夜は流れる黒雲の間に星が見える状態。先発隊のテントの明かりも目にすることができた。会の三グループがそれぞれの位置で、思いもそれぞれに眠りについた。夜中に、フライの裾がはためく音で目が覚めた。雨がぱらついたが、幸い天気はそれ程は崩れなかった。
 日曜日の午前中は前線の通過で荒れるが、午後からは晴という予報が出ていた。テントから頭を出すと、太郎助山の全貌を眺めることのできる静かな朝になっていた。早朝発隊は、金曜発隊に合流すべく、4時半から行動を開始したようである。我々は時間に余裕があるため、朝食をしっかりとってから出発した。
 内桧岳への分岐にあたる1084mピークに立つと、これから歩く稜線を目で追うことができた。ほとんどが薮尾根になっていたが、所々にある雪のブロックが問題であった。覚悟を決めて歩き出すことにした。稜線の上には、踏み跡が続いていた。雪渓が左下に迫ったきたが、枝尾根を巻いた後で稜線に上がることができるか判らないため、そのまま薮道を進んだ。小ピークの上に雪のブロックがのっており、乗り越すことができないため、右の薮を巻くことにした。雪の壁にピッケルを差し込み、僅かな足場を求めながら伝い歩きをしていくと、横に寝た木の枝にまたがる状態になった。枝の下に地面は無く、宙乗り状態になっていた。落ちたらどこまでいくのかと覗き込めば、谷底まで一直線になりそうであった。稜線に戻って、大きく息をついた。二度と通りたくないへつりであった。地図ではそう難しくはなさそうな稜線であるが、崖マークがもっと続いてしかるべきであろう。「一難去ってまた一難」という言葉が相応しいように、その先の岩峰で、3m程の壁になった雪のブロックが現れた。今度は、潅木際のへつりは無理であった。これで引き返しかなと思ったら、アイゼンを付ければ登ることができると上村さんは言う。稜線の左右は切り立っており、落ちたら助かりそうもない。ともかくアイゼンを履いていると、黒雲が流れてきて、雨が降り始めた。ますます、気力が萎えてきた。雷も鳴りそうな雰囲気であった。少し休んだ後に行動開始。上村さんが、ピッケルを雪面に思いっきり差し込んで支点にしながら雪の壁を登っていった。頂上を越すと、向こうは問題はないので上がってくるようにという声がかかった。お手本を守りながら、雪面を登った。このようなピッケル・アイゼンワークは、私のレパートリーには入っていない。おとなしく、中高年ハイカーの分を守っているべきだったかとも思った。幸いにも、頂上の向こうは、なだらかな雪堤が続いていた。このような雪壁の登りは、内桧岳の北東ピークに上がる所でも、もう一個所現れた。アイゼンを履いての薮漕ぎになったが、稜線の左右が切り落ちているため、アイゼンの爪を引っかけて転ばないように、足の運びに注意を払う必要があった。
 雨からミゾレに変わり、周囲の視界も利かなくなった。内桧岳の北東ピークからの下降点が分かり難く、北西の枝尾根に引き込まれそうになった。下りの先の様子がおかしいのに気が付き、一瞬ガスが薄らいで、内桧岳の方向を確かめることができた。一旦大きく下降して、再び登り返すと、内桧岳の頂上に到着した。といっても、稜線の先が下りに転じたことで登頂を確認するという、あまりはっきりしない山頂であった。山頂部は、腰も下ろせない痩せた雪稜になっているため、一段下がった所の潅木の縁でひと休みした。
 無線が通じて、桧岳組は山頂直下に達していることを知った。桧岳アタック組の小滝さんから、内桧岳登頂のお祝いの言葉を受けた。内桧岳の山頂では霰から雪に変わりつつといった状態であるが、標高の高い桧岳では本格的な雪になっているようであった。それぞれの行動は違っていても、谷向こうの山に仲間がいて、声を聞くことができると、励まされた。経験豊富な上村さんでも、緊張の歩きが続いたため喉が乾いたということで、水を飲んでいた。
 内桧岳の山頂は、足沢山付近からは、稜線上のいちピークにしか見えない。実際に登っても、はっきりしない山頂であった。この山が山らしく見えるのは、黒又川第二ダム、あるいはこったが山あたりからであろうか。ひとつの山を登って、さらなる課題が加わった。今回は果たせなかったが、目の前には、桧沢を挟んで桧岳の鋭鋒がそそりたっているはずである。内桧岳まで踏み跡が続いていることから、この山は雪の無い時期でも登れそうである。後に続くものはいるだろうか。誰かの報告を待ちたい。
 帰りは、二個所の雪壁の下りが恐かった。中間地点から、宙乗りへつりの難所を避けるために、雪渓に下りた。枝尾根を避けるように一旦下って、緩やかに登っていき、最後は直登で稜線を目指した。薮道に戻り、前方のピークに、もしやと思いながら足早に登ると、そこは分岐のピークであった。張りっぱなしのテントがすぐ下に見えた。始めから雪渓歩きをすれば良かったと思わないではいられないが、稜線の先がどうなっているのか判らない状態では、稜線から離れて下降することは無理である。
 テントに入って、残しておいたビールで乾杯した。乾いた喉にビールは旨かった。緊張というスパイスの利いたビールであった。ストーブをたいて暖まり、食事をとって、他の隊の下山を待った。
 土曜日早朝発隊が下ってきたのに合わせて下山に移った。足沢山の山頂に立つと、雲も無くなってきて、桧岳がその鋭い山頂を見せるようになった。内桧岳へ至る稜線も一望できるようになった。苦労して登った雪のブロックも、ひと粒の塊のように見えていた。北には浅草岳が大きく広がっていた。今回は、毛猛山塊入門コースとしていろいろ勉強させてもらった。次はあの太郎助山を越えてと思いながら、長く感じられる下りに移った。
 最後の車道歩きは長く感じられた。駐車場に戻って振り返ると、山への憧れをかきたてるように、前毛猛山がバラ色に染まっていた。
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