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蒲萄山塊縦走


【日時】 2000年3月18日(土)〜19日(日) 1泊2日
【メンバー】 峡彩ランタン会会山行 7名
出迎え隊 4名
【天候】 18日:雨後曇り 19日:晴

【山域】 蒲萄山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
新保岳・しんぼだけ・852.2m・一等三角点補点・新潟県
蒲萄山・ぶどうやま・795.4m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/勝木/蒲萄
【ガイド】 LATERNE vol.4 p.290〜291、LATERNE vol.5 p.417〜418

【時間記録】 
3月18日 6:30 新潟発=(R.7、村上 経由)=8:57 塩野町小学校〜8:07 発―10:42 山の神―10:55 新保岳登山口―11:24 夫婦松―13:38 展望台〜13:47 発―14:21 新保岳〜14:26 発―14:30 新保岳山頂下鞍部  (テント泊)
3月19日 8:05 新保岳山頂下鞍部発―9:00 720mピーク―9:19 米ヶ岳(692m)〜9:31 発―10:25 765mピーク―11:10 778mピーク―12:16 蒲萄山―12:50 650m 付近の稜線〜13:35 発―14:54 山北朝日線下り口(鉄塔勝木線278号)=(R.7、村上、R.345、荒井浜、R.113、蓮野IC、R.7 経由)=17:40 新潟着

 蒲萄山塊は、新潟県北部の、景勝地笹川流れの広がる日本海海岸部と国道7号線の間に広がる、南北24km、東西約8kmに及ぶ山塊である。この蒲萄山脈の最高峰は、新保岳である。一等三角点が置かれ、この山域では貴重な登山道が整備されていることから、登山者に親しまれている山になっている。また、山塊の名前にも用いられている蒲萄山は、麓にスキー場が開かれて、山頂にマイクロワエーブ基地が設けられていることから、周囲の山からも良く見分けることができる山になっている。新保岳から蒲萄山の間は、名前の知られているピークとしては米ヶ山(692m)くらいのものであるが、小さなピークが連なり、ブナ林の稜線歩きを楽しむことができる。このコースは、登山道はないことから、積雪の縦走路として歩かれている。

 蒲萄山塊の山旅として、地形図に記載されている山をひとつずつ登ってきた。新保岳に登ったのは、かなり以前の1993年11月13日のことで、時の経過と共に、山頂直下のブナ林が美しかったこと以外は、印象も薄れてきている。蒲萄山は、1998年3月28日に、営業終了後の蒲萄スキー場から登って、春山を楽しんだ記憶も新しい。蒲萄山から眺めた新保岳方面の稜線を眺めて、いつか縦走をと心の片隅にしまい込んだ。新保岳から蒲萄山にかけての蒲萄山塊縦走が、3月の会山行として設けられることになり、蒲萄山塊縦走がかなえられることになった。
 朝出発しようとすると、雨が降ってきて、あわてて雨具の帽子をザックに入れることになった。西の方から雨は上がっているようだが、県北部の蒲萄山塊が目的地とあっては、天気の回復も遅れそうであった。いつものように鳥屋野公園に集合した。今回の山行は、いつもと変わって、常連の女性陣はお休みとなり、男性だけの7名グループになった。三連休ともなると、いろいろの制約を受ける人も多くなるようである。村上を過ぎて三面川を渡ると、雪の量はみるみるうちに多くなった。途中から本降りの雨になったため、共同装備の配分や登山の着替えのために、屋根のある場所が必要になったが、幸い「道の駅朝日」を利用することができた。
 田村さんらの事前の偵察で、新保岳登山口の林道は、除雪されておらず、雪に埋もれていることが判っていた。塩野町小学校の駐車場に車を置いた。事前に、武田さんが、塩野町小学校の駐車場に車を置かせてもらうことの許可を得ていた。
 雨具の上下を着込み、ワカンを手に提げての、あまり気勢の上がらない出発になった。集落内を通り抜ける旧道の脇の田圃は厚く雪に覆われており、ここからワカンを履いての歩きになった。水田を横切ると、林道の上に出た。登山口までは、塩野川を遡れば良いのだが、一面の雪原の先は、白くかすんでいた。左岸沿いの林道は、カーブして距離が長めになることから、右岸に渡って、谷の奥に進むことになった。雪は重く、最初から体力を消耗する歩きになった。田圃の歩きといっても、途中で用水路が横断していたりして、油断がならなかった。右手から林道が合わさってきて、以後は林道歩きになった。林道途中の山の神は、鳥居の半分程まで雪に埋もれていた。地図では、赤沢の横断点手前で林道は終わっているが、実際には、その先まで林道が延びている。この赤沢については、藤島玄氏の「越後の山旅」では、戸立沢と書かれており、登山口に続く北に延びる沢が赤沢になっている。どちらが正しいのか判らないが、混乱しないよう注意が必要であろう。
 登山口までは、途中の休憩も必要になって、2時間近くもかかった。雪の無い季節なら、ここまで車乗り入れが可能なものなのだが。幸運なことに、林道歩きの途中から雨が止んでくれた。新保岳登山口は、林道の切り通しの縁の急な斜面を登るように記憶していた。雪が積もって、登山道の道形は完全に隠されていたが、登山口の標柱が雪の上に頭を出しており、登り口を確認することができた。雪を踏み固めながらの急な登りに、汗を流すことになった。グズグズの雪で、トップを交代しながらの登りになった。夫婦松まで登ると、尾根の傾斜もようやく緩やかになった。登山口の先に延びている林道は、谷を大きく巻いて、高い所の山腹を横切っていた。僅かずつではあるが、林道の工事は今も進んでいるという。最終的には、新保岳と米ヶ山の間を越して日本海側に抜けるというが、願わくば、その日が来ないことを祈ろう。
 今年始めて、マンサクの花を見た。新潟周辺の山では、春分の日の頃にマンサクの花を見るような気がする。雪の量は毎年異なるとも、日照時間によって花を開く時期を知るのであろうか。
 途中の鎖とロープの掛けられている10m程の岩場は、夏場はどうということも無い所であるが、雪を固めながら慎重に登る必要があった。尾根の登りの途中で昼になってしまい、昼食休憩になった。さすがにビールを出す者はおらず、会山行としては珍しくアルコール無しの昼食になった。新保岳の山頂は、手前の肩に隠されて見えないが、南に続く稜線が次第に低く近づいてきて、高度も上がってきたことを知ることができた。
 途中から風が強くなり、雨具の上着を再び着込むことになった。大行尾根が合わさる見晴台に出ると、展望が広がった。新保岳の山頂も、右奥のもうひと登りの距離に見えた。山頂の中継基地が目立つ蒲萄山が思ったよりも近い距離に見え、そこに至る稜線を目でおうことができた。今日の泊まり場は、米ヶ山の手前の稜線部ということであったが、そこまでは小さなピークをいくつも越していく必要があった。ともあれ、山頂を越してということで歩き出した。
 新保岳の山頂手前は、ブナ平と呼ばれ、巨木の並んだブナ林が広がっている。見晴台で休んだばかりなのに、足が進まなくなってしまう。誰ともなく、「ここに泊まってしまおうぜ」という声があがった。今日は、山は借り切りで、登山道の真ん中にテントを張ろうと、誰からも文句はこない。とにかく山頂を踏んでということで、登り続けた。
 新保岳の山頂は、雪原となり、横風に雪が舞った。にび色の日本海も足元であったが、粟島はかすんでいた。縦走路の南方面の展望が開けていた。いつかは、三額山から戸立山を経て新保岳までの縦走を行ってみたいものである。以前に登った時は、展望は木立に遮られて、一等三角点しか見るべきものは無いような感じを持った山頂であったが、雪原となった山頂は開放的で印象は変わっていた。風に追われるように、北に向かう縦走路に足を踏み出した。
 ブナ林の中の急坂を下っていき、前方の小ピークとの間の鞍部で、リーダーの武田さんから、ここで泊まりとの指示がでた。谷間に入って、高みを通り過ぎる風の音は聞こえるものの、風は当たらなくなっていた。東の朝日連峰方面と、縦走路の先を眺めることのできる展望地でもあった。なによりも、美しいブナ林が周囲に広がっているのが好ましかった。
 二張りのテントで、余裕を持って眠ることのできる態勢を整えた。夕飯のメニューはビーフカレーであったが、その前に、ビール、日本酒、ウイスキーを飲んで、水分の補給を行う必要があった。酔うほどに山の宴は盛り上がった。テントの外に出てみると、まん丸い月が上がっていた。月明かりに照らされて、ブナ木の影が雪の上に縞模様を作っていた。こんな月夜に、歩き続けるのも面白いかもしれないと思ったものの、雪にはまって足がもつれた。
 翌朝は、5時に起床したが、ゆっくりと朝食をとって8時の出発になった。夜明けに東の空がバラ色に染まり、朝日連峰の眺めが広がった。尖った山頂の大朝日岳と祝瓶山を見分けることができた。鷲ヶ巣山、天蓋山、鰈山など、出発前のひと時を山岳展望に費やした。
 縦走路を進んでみると、その先もブナ林の稜線が続いた。新保岳のブナ林は、美しいものの規模はそれ程大きくはない、という印象は変えなければならない。ただ、見たことのある者は限られて、知られていないだけである。ここの特徴は、稜線上の縦走路に沿ってブナ林が長く続くことであった。ブナ林に囲まれた泊まり場も、その先にいくらでもあった。
 新保岳からは、大きな下りになった。雪原を下ると、雪玉がひと足お先にと転げ落ちていった。昨日のクサレ雪と違って、雪も締まって、トップ交代の必要もなく、気楽な歩きになった。風景やブナ林を眺めながらのんびり歩かせてもらうことにした。小ピークを越すたびに、現在位置を確認した。縦走路の途中で、唯一山名のある米ヶ山はどのピークかと思いながら歩いた。西に長い尾根を張り出した720mピークが目立つピークであるにもかかわらず、これは無名峰で、その先のなだらかな692mピークが米ヶ山であった。米ヶ沢の源頭にあることの他に、東に尾根を延ばしており、麓の集落との結びつきが深かったために名前が付けられていたのではないだろうか。米ヶ山の山頂は、台地状で、美しいブナ林が広がっていた。斜面には、大きな雪の壁ができて、少し手を加えれば、簡単に雪洞ができそうであった。
 米ヶ山を下った先の610m地点が縦走路上の最低点となる。795.4mの蒲萄山に向かって、幾つかのピークを越えながら登っていかなければならない。縦走路を眺めた時に、尖ったピークが目立ち、始めこれが米ヶ山かと思ったが、765mの無名峰であった。765mに向かっての長い登りが続いた。
 ここで、アクシデントが発生した。ワカンが外れたと思ったら、横渡しのベルトが一本切れていた。つい先日、蒲萄山塊北部の丸山で、ワカンのベルトが切れて、その場は、ロープで修理して山行を続けた。補修部品を手に入れる前に、次の週末になってしまったために、新しいワカンを買ってしまい、今回は三回目の山行であった。こんなに早くベルトが切れるようでは、欠陥商品である。幸い、最後尾で歩いている分には坪足でも充分なので、そのまま歩いて、次の休憩時にロープで修理した。ワカンのベルトは切れるものと思って、ロープを持っている必要がある。このアクシデントは、さらにダメ押しがあった。蒲萄山からの下りを続けていると、反対側のワカンのベルトも切れてしまった。先に使ったロープは長かったので、一旦ほどいて二つに切って修理すれば良かったのだが、面倒になって、片足だけのワカンで下ってしまった。翌日スポーツ店で話をすると、ベルトは熱接着で、縫製のものよりは丈夫ということになっているそうである。合わせ目部分から切れている所をみると、不良品が混じっているということか。ワカンの破損は、場合によっては窮地に追い込まれることになるので、クライミングギア並みの確実性が要求される。
 778mピーク手前から風が強くなり、雨具の上着と帽子手袋着用になった。蒲萄山も近づき、山頂直下の林道も見分けることができるようになった。778mピークから西にかけては長い尾根が続き、その先には、現在の地形図から名前が消された高倉山(579.3m)がある。西尾根の上はともかく、その両脇の斜面は伐採が進んでいた。この尾根を高倉山から歩いてみたら面白いかと思っていたのだが、興味が薄れてしまった。さらに蒲萄山にかけての稜線の西側は伐採地になっていた。蒲萄山は、東のスキー場に、西の伐採地と林道、山頂のアンテナ基地と、各方面から痛めつけられている。蒲萄山へは、いささか辛い登りになった。山頂の大きなアンテナが、距離感を狂わせているのかもしれず、すぐそこに見えるのになかなか付かなかった。
 上村さんと最後に蒲萄山に到着して、大休止かと思ったら、北の町界尾根の途中に黄色いテントが見えて、どうやら出迎え隊のようであるという。葡萄山へは、スキー場経由で登るのが一般的であるが、今回は町界尾根を歩いて見ようということになっていた。町界尾根の登りは長いことから、どうやらそこで待っているようであった。登りはともかく、下りには問題の無い距離なので、合流するために、下りに移った。町界尾根は、スキーのコースにもってこいの雪原が続いた。ぶどうスキー場の山頂リフト下り場も谷向こうで、スキーヤーも目に入り、ゲレンデの放送も耳に入ってきた。
 4名の出迎え隊が、ツエルトを張って待っていてくれた。無事に合流することができて、出迎え隊差し入れのビールで乾杯をした。ビールは無くなっており、有り難く、美味しいビールであった。町界尾根の下りは、これまでの縦走路とは違って、北側の展望が開放的に広がっていた。目の前の尖った山頂を持つ山は、烏帽子岳のようであった。途中、二ケ所急斜面があったが、ゆっくりと下れば問題はなかった。尾根の下部では、潅木のヤブがうるさくなった。花をつけたマンサクの木も混じっていたが、薮コギのとばっちりで、うるさいとばかりに邪険に扱われていた。尾根の末端部で、右に下ると、送電線の鉄塔(勝木線278号)脇に出て、山北朝日線に降り立って縦走は終わった。
 この縦走の思い出は、時と共に変わっていくとしても、最後まで残るのは、稜線に沿って広がるブナ林と、ブナ林の中の泊まり場のことであろう。

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