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櫛形山脈縦走


【日時】 2000年2月19日(土)〜20日(日) 1泊2日
【メンバー】 峡彩ランタン会会山行(14名) 20日 日帰り隊
【天候】 晴:曇り

【山域】 櫛形山脈
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
願文山・がんもんざん・248m・なし・新潟県
大峰山・おおみねやま・399.5m・三等三角点・新潟県
法印峰・ほういんのみね・501.7m・四等三角点・新潟県
櫛形山・くしがたやま・568.0m・二等三角点・新潟県
飯角山・いいずみやま・490.5m・四等三角点・新潟県
羽黒山・はぐろやま・425.9m・三等三角点・新潟県
板入峰・いたいりのみね・446.4・四等三角点・新潟県
ユズリハの峰・ゆずりはのみね・385m・なし・新潟県
鳥坂山・とっさかやま・438.5m・三等三角点・新潟県
興屋沢の峰・こうやさわのみね・330m・なし・新潟県
白鳥山・しらとりやま・298m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上、新潟/中条、新発田/中条、菅谷
【ガイド】 新ハイキング95年4月474号

【時間記録】 
2月19日(土) 6:50 新潟発=(R.7、金塚、貝屋 経由)=7:52 花見公園駐車場〜8:30 発―8:38 花見の丘―9:23 願文山〜9:30 発―10:05 展望台地〜10:16 発―10:32 大峰山―10:52 櫛形林道―11:21 アンテナピーク〜11:53 発―13:02 法印峰―13:59 関沢分岐―14:04 櫛形山〜14:10 発―14:30 泊まり場  (テント泊)
2月20日(日) 8:35 泊まり場発―8:44 飯角山―10:57 板入峰―11:16 黒川中学校分岐―11:44 ユズリハの峰―12:14 鳥坂山〜13:35 発―14:02 興屋沢の峰―14:17 追分コース分岐―14:22 白鳥山〜14:27 発―14:32 追分コース分岐―14:56 白鳥公園=(胎内グランドホテル入浴(300円)、R.7 、七社、紫雲寺、聖籠IC、R.7 経由)=17:30 新潟着

 櫛形山脈は、日本海沿いに広がり、胎内川と加治川によって両端が切りおとされた、全長約13キロメートルの山塊である。25000分の1図に山脈と記されている唯一の例といわれ、日本一のミニ山脈と呼ばれている。北部の白鳥山と鳥坂山、中央部の櫛形山、南部の大峰山が、それぞれ日帰り山行の山として親しまれているが、それらを結ぶ縦走路がハイキングコースとして整備されている。

 この櫛形山脈の冬季入山者は、大峰山に山小屋もあって良く登られているが、それに比べて鳥坂山や櫛形山は格段に少ない。ましてや櫛形山脈縦走コースに至っては、豪雪地にあって個人の手には余る半面、ハイキングコースというイメージがあるために山岳会の歩くコースとしては対象とされず、空白地帯となっている。
 櫛形山脈縦走は、1995年4月8日に、鉄道を使って中条駅から歩き出した。白鳥山から鳥坂山を経て櫛形山まで歩いたものの、残雪歩きで体力を消耗し水を飲みきってしまったために、関沢登山口に下山してしまった。ジュースの自動販売機を探しながら中条駅に戻ったことがある。この縦走中断山行以来、櫛形山脈では、願文山から大峰山(1999年1月17日)、南部の要害山と鳥屋ノ峰(1999年12月11日)を歩いているものの、縦走を果たしていないことが心残りであった。峡彩ランタン会の会山行で櫛形山脈縦走が取りあげられたことから、良い機会と参加させてもらうことにした。大部分を歩いたことのあるコースでもあるので、泊まりの会山行デビューとしては手頃かなと思ったというのも理由の一つではあった。
 いつものように鳥屋野潟公園に集合し、車に便乗してまずは大峰山を目指した。大峰山への登山コースとしては、寺沢林道終点からのコースが良く使われているが、冬季はこの林道は雪に閉ざされている。少し前までは、貝屋集落はずれの村営駐車場から歩き出していたが、現在では、少し林道を進んだ所の桜公園入口の駐車場を使うことができる。雪の状態によっては、入口の駐車場までかと思ったが、四駆の車が揃っていたため、10センチ程の雪に轍を残して、桜公園入口の駐車場まで進むことができた。翌日は、日帰り隊と合流するということで、車の回送は後回しにして、歩き出すことになった。登山靴にスパッツの身支度をし、ワカンもここから付けるようにとの指示が出た。共同装備を持つと、ザックはずっしりと重くなった。夏山では、これより重い荷物は運んだことはあったものの、ワカン歩きではいつも軽い荷物ばかりであった。
 桜公園の入口から杉林の中をひと登りすると、「花見の丘」の尾根上に出た。ここで、早くも汗が吹き出て、衣類を一枚脱ぐのにひと休み。「この先は、道が荒れておりますので一般の方は、ご遠慮願います」という看板を横目に、願文山への登山道へ足を踏み出した。先回は、ここから願文山へ登山道が続いているかも判らない状態であったので、二回目の今回は気は楽である。雪の量もそう多くはなく、大人数の歩きということでもあり、雪は歩きの支障にはならなかった。週の半ばに寒気が入り込んだおかげか、周囲の木々は美しく雪に覆われていて、低い標高にもかかわらず山奥の雰囲気を楽しむことができた。急坂が所々現れるが、ロープも整備されており、問題のない道であった。杉林が山頂部に広がる小ピークに上がると、ここが願文山である。
 願文山は、かつて山城の置かれていた山である。承久の乱(承久三年(1221年))のおり、後鳥羽上皇方についた藤原家賢(いえかた)(酒匂八郎家賢)は、北条幕府方の加治の城主佐々木兵衛太郎信実の西上を牽制するために、一族郎党を引き連れて願文山にこもったが、約二ヶ月の攻城戦の後に破れて滅亡してしまったという。昭和三年、天皇からその功績をたたえられ正五位が授与され、それを契機に金山の住民が山上に酒匂(さかわ)神社を建立したという。山頂の登り口にある「忠臣酒匂家賢之墓」という立派な石碑や石灯篭を眺めて、しばし昔に思いをはせてみたい。
 まずは、第一の目標地点に到着してひと休み。渡部陽子さんや田村さんが一月に偵察で登った時には、雪はお堂を埋めんばかりであったという。頭上高くにある枝に赤布が付けられているところを見ると、雪解けはかなり進んでいるようであった。
 願文山の下りで、前方に櫛形山脈の稜線を眺めることができるようになる。登るに連れて、左の谷向こうに法印峰が大きく見えるようになった。白い雪原になった展望台地に出ると、日本海とその縁に沿って広がる平野部の眺めが広がった。いつもはハイカーで賑わうこの広場も、我々のグループだけであった。ここの小屋で昼食という予定であったが、昼にはまだ早いし、陽気も良くて戸外で昼食を採るのも可能ということで、先に進むことになった。
 展望台地から尾根を辿ると、大峰山の山頂に到着するが、この山頂は稜線上の通過点といった感じしかしない。標識が雪の中から頭をのぞかせていなければ、そのまま通過してしまうところである。先頭グループは足を止めずにそのまま先に進んでいってしまった。林の中を緩やかに下っていくと、自然にコースは北に向いていった。箱岩峠への分岐があるはずであったが、標識があるのかどうかは判らなかった。その先で、右下に沿ってきた櫛形林道に降り立った。林道は、雪に埋もれて、歩いた者はいないようであった。前方のピークの一段下がったところに大きなアンテナを立てた無線中継基地があり、この林道はそこに通じているようであった。
 先行グループはそのまま林道を進んでしまったが、登山道は、尾根通しに続いていた。ピークの上で合流することは確かなので、尾根沿いに登ることにした。風の通り道であったのか、雪の表面が堅くしまって、歩きやすくなっていた。林道は、大きく東に回り込んで登山道から離れていってしまった。ピーク手前で、ようやく先行グループが中継基地に近づいてきているのが見えた。ラッセルに苦労しているようであった。先にピークに到着して休んでいると、大汗をかいて先行グループが登ってきた。この季節、林道歩きは、雪が深くて思わぬ苦労をすることになる。ここで、昼の休憩になった。
 今日の泊まり場は、法印峰を越して、櫛形山の先。まだまだ、先は長い。ザックの重さが肩にきいてきて、ここからが、辛い歩きになった。前方に法印峰が見えても、その間にはいくつかの小ピークが挟まっていた。法印峰へは、長く感じられる登りが続いた。登り着いたところは、法印峰の肩で、山頂はもう少し先であった。櫛形山が近づくと、美しいブナ林が広がるようになった。関沢分岐に出ると、櫛形山の山頂は、そこからひと登りした所であった。
 先回の櫛形山脈縦走の時は、ここで下山してしまったので、ようやく縦走路が繋がったことになる。櫛形山の山頂は、雪稜といった感じで、東に一段下がった所に、山頂の標識が頭をのぞかせていた。東には、二王子岳から飯豊連峰の前衛峰の眺めが広がっていた。一同で記念撮影。標高は500m強の低山に過ぎないが、展望を楽しむことのできる山頂である。
 後もうひと頑張りして、櫛形山から小ピークを幾つか越した稜線下の林の中が泊まり場になった。体力も切れ掛かっており、丁度良い頃合であった。雪原を整地して、ジャンボテント二張りに、小テント一張りが張られた。それぞれのテントに分かれて、喉の乾きに待ちかねていた乾杯になった。二つのグループに分かれての夕食のメインは、シチューと豚汁であった。夕方早くから始まった飲み会は、テントを移動しならがら、夜遅くまで続いた。日が暮れてからは、胎内スキー場のゲレンデの照明が明るく見えていたが、雪綾に上ると、中条の町明かりが、宝石を散りばめたように眼下に広がっていた。空には満月が上り、テント場となった林の中は煌々と照らし出されていた。これが会山行では初めての泊まりになったが、良く眠ることができた。
 翌朝は5時起床。夢うつつで、テントの表面をサラサラ音を立てて風が通りすぎると思っていたら、うっすらと雪が積もっており、その落ちる音であった。明けゆく空を見ると曇り空でまずまずの登山日和のようであった。朝食を採って、テントの撤収。日帰り隊との合流の為の時間調整もあり、8時30分のゆっくりとした出発になった。
 朝早くは、雪もしまっており、荷物も軽くなっており、快調に歩くことができた。稜線は、所々コースを変えており、直進すると誤った尾根を下ってしまうところもあって、注意する必要があった。前方には、板入峰から鳥坂山に続く稜線が横に長く続いていた。そこまでは、まだまだ距離があった。日帰り隊と電話連絡をとると、そう急ぐ必要もないということで、休憩を取りながら歩き続けた。
 羽黒山三角点ピーク付近は、尾根の東側が伐採されており、残念な感じではあったが、一面の雪原となり、その向こうには、二王子岳や飯豊連峰前衛峰の眺めが広がった。振り返れば、歩いてきた稜線が長く続いており、一同風景に見入った。その先からしばらくは、稜線は痩せて、雑木林の縁を歩くのに注意が必要になった。
 尾根の屈曲点の板入峰に到着して、ひと息ついた。日帰り隊は、鳥坂山の頂上に天蓋を張ったようで、もうひと頑張りする必要がありそうであった。うわさをしていると、手ぶらになった日帰り隊の人達が、出迎えにやってくるのに出合った。黒中峰、ユズリハの峰を過ぎると、鳥坂峰への最後の登りになった。櫛形山脈北部を代表するピークとあって、大きく頭をもたげている。疲れてきた足には、辛く感じられる登りであった。
 頂上広場手前の潅木帯の中に天蓋が張ってあり、休憩の準備がしてあった。一同、天蓋の中に収まって、昼の宴会モードに入った。江田ショフの凝ったシチューにおつまみ多数。最後は、コーヒーゼリーで締めくくり。いつもの質素な山の昼食とは大違いである。
 運転手組が、車の回送のためにひと足早く下山した後、一同下山に移った。ワカンはいらないということだったが、昼になって気温が上がったためか、雪に時折大きく沈み込むので、体力を必要とする下りにばった。急な下りを続けてアンテナピークに到着すると、ここが興屋沢の峰。さらに下っていくと、五の堀と呼ばれる空堀が現れて、その少し先で
下降点の追分コース分岐に出た。白鳥山は、わずか先のようだったので、荷物を置いて寄っていくことにした。空堀を越していくと白鳥山の山頂に到着した。
その途中には、「白鳥城跡の空堀(からぼり)」という説明板が立てられ、以下のように開設されていた。
  この「空堀」は、奥山荘の豪族、城氏一族が山城を敵の攻撃から守るために掘った「空堀」であると伝えられています。
 「空堀」は底面の一部が曲輪(城を取り巻く段状の防塁、幅の広いものを腰曲輪、狭いものを帯曲輪と云う)につながっているのが特徴で、この鳥坂城では五本の空掘と、五段の帯曲輪跡が確認されています。 中条町
 白鳥山の山頂にはあずまやが置かれて、中条町方面の展望が開けていた。いかにも、下界を見下ろす山城らしい風景であった。この城跡の説明は、以下のように書かれていた。
鳥坂城跡(白鳥城跡)
 鎌倉時代のはじめ―建仁元年(1201)北越後の大豪族城資盛が、叔母の板額とともに鎌倉幕府に抵抗し、この城で最後の戦いをして滅びたと伝えられている。また、南北時代に中条茂資がたてこもり、宝徳二年(1450)孫の房資が拡充、強化して以後戦国時代まで中条氏の有事の際の要害であった。細長い山稜に添って五条の空壕に仕切られ大小六つの郭がならび両側山腹には、二0段におよぶ桟敷状の小段階が附属している。また西方の山麓線をかこんで長城風の塁壕線が残存している。
昭和五十九年十月三日 国史跡文化財指定
 縦走最後のピークとしての記念写真を採った後に、追分コース分岐に戻った。追分コースに入るとすぐに、洞穴という説明板が現れた。
洞穴
この「洞穴」は、その昔、城氏がこの山に城を築いた頃自然にできていたこの穴を見つけ、内部に手を加え、非常時に備えた食料等を貯えていたのではないかと想像されています。
 入り口は狭いが、内部は湿度もなく畳六枚程度の広さがあります。
 入り口はじめ、内部も風化して崩れやすくなっており非常に危険ですので近寄らないで下さい。 中条町
 説明板をいちいち書き取っていては大変だが、デジカメのおかげで、気楽に撮影して、あとでゆっくりと書き取ることができのは良い。
 送電線の切り開きに沿った急な下りが途中で現れた。真っ直ぐはおっかないので、ジグザグを切りながら下った。左手にトラバース気味に下っていくと、大きなタンクが見え始め、白鳥公園が近づいてきた。
 白鳥公園の駐車場に下りたって、櫛形山脈縦走を終えることができた。長い歩きであった。懸案の櫛形山脈縦走を終えることができた。このような会山行でなかったら歩くことはなかったという声も出ていた。リーダー並びに、縦走及び日帰り隊の多くの人達の力が合わさって可能になった山行であった。しかし、今回の歩きは、ハイキングコースとしての櫛形山脈縦走とは少し違ったもののような気が拭えないでいる。先回の中断となった櫛形山脈縦走を終えるためには、再び訪れる必要があるようである。新緑か紅葉を楽しみながら、一人静かに歩いてみたい。

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